ヨハネの福音書14章4~14節
先週は、主が、4節 「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」と言われた時、トマスから※5節 「・・・どうしたら・・・知ることが」と尋ねられるが、その彼に、6節 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と応えられたおことばに注目した。
ⅰ 「わたしが道であり」とは?
主のみ体が十字架上で宥なだめの為の完全な供え物として献げられた時、神殿の垂れ幕が上から真っ二つに引き裂かれたが、主によって罪人が、聖なる神に大胆に近づけるようにされた「道」であるお方。
ⅱ 「わたしが・・・真理であり」とは?
主を裁いた総督ピラトの※18章38節 「真理とは何なのか」は、ギリシア・ローマ時代を通じての探求の象徴的叫びであるが、正に主はその渇いた時代に、彼らが求めて止まなかった真理《 1章14節 ※受肉した真理 》としてご降誕された。
ⅲ 「わたしが・・・いのちなのです」とは?
真理である主は、ご自身が語られるところに生きるお方として いのちをもたらされた。聖父の御心に全き従順をもって生涯を貫かれ、13章34節b 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、極めて自己中心的人間を、主に似せて造り変える「いのち」を与えるお方なのだ。
ローマ8章3、4節 「律法の要求が満たされるため」と。
※ 「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに・・・」と権威をもって言われる主との関係を正しつつの日々を、と。
今朝は、主がトマスの質問に答えて※7節 詳訳 「あなたがたがもしわたしを知ることを〈学んで〉いたならば〉、わたしの父をも知っていたであろう。今からは、あなたがたは父を知っている。又、父を見たのである」と言われた時、ピリポの質問※8節 「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」に応えられたおことばに注目したい。
ここでも主は、9節 「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか」と、トマスに続いて、今度は、「わたしを知らない」という最も深刻な彼の無知に驚かざるを得なくされた。
この「わたしを知らない」とは!? 「こんなに長い間、一緒にいるのに」は、人の子としての主の深い悲しみの嘆き!!
しかしここでも主は、10節 「・・・信じていないのですか」、11節 「わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい」と熱意を込めて諭される主なのだ。
弟子たちは《 主をどの様なお方として知るべき 》だった?
① 9節c 「わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか」とある《 父と一つであるお方 》として。
10、11節 「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」と言われることで説明され、1章18節b 詳訳 「神を啓示された、目に見えるように現わされた。神を説き明かされた〈知らされた〉」お方なのだ。
何故なら、10節b 詳訳 「わたしがあなたがたに語っていることは自分の権威によって〈自分の考えのままに〉言うのではない。父が絶えずわたしのうちに生きておられ、みわざをなされる」ことで【5章19、30節】と。
確かに 7章46節には、「これまで、あの人のように話した人はいません」、マタイ7章28、29節 「・・・群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである」、同13章54、55節 「ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。『この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか・・・』」ともっぱら話題となっていた。
人々には不思議に見えても、弟子たちには、主のことばとわざとは《 聖父が源だからこそ持ち合わせられた権威だった 》と認められて当然と主は思われたのだが。
② 更に、その生き方をもって、12節 「・・・わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います」と、即ち《 弟子たちを主と同じくするお方 》として。
弟子たちには 自分たちが受けて来た訓練の目的を再確認させられる約束事で、何と主は、「わたしが行うわざを行」い、「さらに大いなるわざを行います」とまで言われる。
a. 12節c 「わたしが父のもとに行くからです」と。
これは言うまでもなく、主の復活後の聖霊降臨を指し、弟子たちが経験する聖霊の満たしに与るからだと。
この約束の確かさは、『使徒の働き』に証明されている。
弟子たちが聖霊に満たされた時、聖霊による大胆さをもって主が語られたように語り、主が為さったように奇跡を行い【使徒4章13~20節】、遂に、30年間のうちにローマ帝国が制覇する地中海沿岸を福音で満たし、しかもその働きは迫害の中をくぐりながら今日、私たちにも及び、今現在、迫害下にあっての宣教のうねりは勢いを増していると!!
この聖霊の満たしは、主が聖父と一体であるように、弟子たちも、6章56、57節 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」と言われる十字架経験《 主と一つとされる霊的経験 》に与ったからだ。
b. 13、14節 「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます」と。
その祈りの動機は全て、「父が子によって栄光をお受けになるため」にあることを覚えたい。父が栄光を受けるのは、ピリピ2章11節 「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」にある。
※ より確かに主を知る者となることに渇く者でありたい。
先週は、主が、4節 「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」と言われた時、トマスから※5節 「・・・どうしたら・・・知ることが」と尋ねられるが、その彼に、6節 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と応えられたおことばに注目した。
ⅰ 「わたしが道であり」とは?
主のみ体が十字架上で宥なだめの為の完全な供え物として献げられた時、神殿の垂れ幕が上から真っ二つに引き裂かれたが、主によって罪人が、聖なる神に大胆に近づけるようにされた「道」であるお方。
ⅱ 「わたしが・・・真理であり」とは?
主を裁いた総督ピラトの※18章38節 「真理とは何なのか」は、ギリシア・ローマ時代を通じての探求の象徴的叫びであるが、正に主はその渇いた時代に、彼らが求めて止まなかった真理《 1章14節 ※受肉した真理 》としてご降誕された。
ⅲ 「わたしが・・・いのちなのです」とは?
真理である主は、ご自身が語られるところに生きるお方として いのちをもたらされた。聖父の御心に全き従順をもって生涯を貫かれ、13章34節b 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、極めて自己中心的人間を、主に似せて造り変える「いのち」を与えるお方なのだ。
ローマ8章3、4節 「律法の要求が満たされるため」と。
※ 「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに・・・」と権威をもって言われる主との関係を正しつつの日々を、と。
今朝は、主がトマスの質問に答えて※7節 詳訳 「あなたがたがもしわたしを知ることを〈学んで〉いたならば〉、わたしの父をも知っていたであろう。今からは、あなたがたは父を知っている。又、父を見たのである」と言われた時、ピリポの質問※8節 「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」に応えられたおことばに注目したい。
ここでも主は、9節 「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか」と、トマスに続いて、今度は、「わたしを知らない」という最も深刻な彼の無知に驚かざるを得なくされた。
この「わたしを知らない」とは!? 「こんなに長い間、一緒にいるのに」は、人の子としての主の深い悲しみの嘆き!!
しかしここでも主は、10節 「・・・信じていないのですか」、11節 「わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい」と熱意を込めて諭される主なのだ。
弟子たちは《 主をどの様なお方として知るべき 》だった?
① 9節c 「わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか」とある《 父と一つであるお方 》として。
10、11節 「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」と言われることで説明され、1章18節b 詳訳 「神を啓示された、目に見えるように現わされた。神を説き明かされた〈知らされた〉」お方なのだ。
何故なら、10節b 詳訳 「わたしがあなたがたに語っていることは自分の権威によって〈自分の考えのままに〉言うのではない。父が絶えずわたしのうちに生きておられ、みわざをなされる」ことで【5章19、30節】と。
確かに 7章46節には、「これまで、あの人のように話した人はいません」、マタイ7章28、29節 「・・・群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである」、同13章54、55節 「ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。『この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか・・・』」ともっぱら話題となっていた。
人々には不思議に見えても、弟子たちには、主のことばとわざとは《 聖父が源だからこそ持ち合わせられた権威だった 》と認められて当然と主は思われたのだが。
② 更に、その生き方をもって、12節 「・・・わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います」と、即ち《 弟子たちを主と同じくするお方 》として。
弟子たちには 自分たちが受けて来た訓練の目的を再確認させられる約束事で、何と主は、「わたしが行うわざを行」い、「さらに大いなるわざを行います」とまで言われる。
a. 12節c 「わたしが父のもとに行くからです」と。
これは言うまでもなく、主の復活後の聖霊降臨を指し、弟子たちが経験する聖霊の満たしに与るからだと。
この約束の確かさは、『使徒の働き』に証明されている。
弟子たちが聖霊に満たされた時、聖霊による大胆さをもって主が語られたように語り、主が為さったように奇跡を行い【使徒4章13~20節】、遂に、30年間のうちにローマ帝国が制覇する地中海沿岸を福音で満たし、しかもその働きは迫害の中をくぐりながら今日、私たちにも及び、今現在、迫害下にあっての宣教のうねりは勢いを増していると!!
この聖霊の満たしは、主が聖父と一体であるように、弟子たちも、6章56、57節 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」と言われる十字架経験《 主と一つとされる霊的経験 》に与ったからだ。
b. 13、14節 「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます」と。
その祈りの動機は全て、「父が子によって栄光をお受けになるため」にあることを覚えたい。父が栄光を受けるのは、ピリピ2章11節 「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」にある。
※ より確かに主を知る者となることに渇く者でありたい。
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