聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 49


ヨハネの福音書14章1~7節

 先週は、主の弟子たちへの「互いに愛し合いなさい」に次ぐ、※1節 「心を騒がせてはな」らない、に注目した!!
 それは、主から《 裏切る者がいること、互いの優劣を競い合っていたものの少なからず年長のペテロには一目置いていたであろう その彼さえも、「三度わたしを知らないと言います」と予告されたこと、あなたがたを残して去って行く、など 》と、俄にわかに、エルサレム中の主への殺気立つ気運の高まりを認めざるを得なくされて来たことから頷ける。この命令は・・・

ⅰ 主ご自身が、ユダの裏切りに《 神への反逆性という憎悪すべきおぞましい罪を見て 》13章21節 「心が騒」ぐという経験をされた上でのおことばだった。
 「神を信じ【神に結び付き、信頼し】・・・なさい」とは、紛れもなく主ご自身こそ、この緊迫した事態の直中で、「神を信じ」ることによって 騒ぐ心が取り除かれたからだ。

ⅱ 2節 「わたしの父の家には住む所がたくさんあります」と、弟子たちを天の御国への希望に置かせるおことばだった。
 弟子たちが主を失うことは、生きる望みの喪失だったが、主は、その「住む所」とは「憩いの家」であること、又、再臨の約束を与えられた。使徒ヨハネが黙示録21章1~8節で、「・・・整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た」とある《 その都 》こそ、「神は人々とともに住」む、主の言われた「憩いの家」なのだ。そして、7節 「勝利を得る者は、これらのものを相続する」と。

※ 「憩いの家」を身近に覚えて勝利を得るよう激励して下さった主を仰ぎたい!! と。


 今朝は、主が「心を騒がせて」いる弟子たちを激励されて、彼らに再確認させようと※4節 詳訳 「わたしがどこに行こうとしているか、その場所への道をあなたがたは知っている」と明言された時、5節 「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」とトマスから尋ねられるが、その彼に、6節 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と応えられたおことばに注目したい。
 主の※4節 「あなたがたは知っている・・・」と言われるのは、“ あなたがたは不安になっているが、実のところもう既に知らされていて、敢えて尋ねる必要のないこと。知らないと言うが、たった今も、1節 「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言ったばかりだが・・・ ” と、トマスには怠惰さの暴露であり、無念さを感じられての指摘である。
 7節は、主のそのお心の吐露ではないか? ※欄外も参照。
 詳訳 「あなたがたがもしわたしを知っていたならば〈認めることを学んでいたならば〉、わたしの父をも知っていたであろう。今からは、あなたがたは父を知っている。又、父を見たのである」とある。この「学んでいたならば」とは、三年間に於ける《 霊的勤勉さは? 主と共にあることの当り前ではないとする謙遜さは? 》これらの如何が問われるのでは?
 しかし主は、ここでも《 彼らへの極みまでの愛を顕あらわされて 》嫌気を起こさずに、その彼らを受け入れ理解されて紐解かれたのが、この6節のおことばであると覚えたい。

① 「わたしが道であり」とは?

 へブル10章19、20節 「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました」。
 同9章25節によると、子羊の「血を携えて聖所に入る大祭司」、即ち、その幕屋の聖所と至聖所とを隔てる垂れ幕を開いて入るのは大祭司のみ。人類の罪が神との関係を遮断した為、神と人との間には深い淵があることを意味する。
 しかし主が人の子として肉体を取り、その肉体が十字架上で引き裂かれることによって、聖なる神に大胆に近づくことが出来るようにされた。主が息を引き取られた時、神殿のその垂れ幕は、上から真っ二つに引き裂かれたのだ。
 聖なる神に大胆に近づけるようにした「道」なるお方。

② 「わたしが・・・真理であり」とは?

 主が十字架刑に処せられる直前、総督ピラトは※18章38節 「真理とは何なのか」と尋ねたが、彼のこの言葉こそ《 B.C.5世紀半ば、古代ギリシア時代、哲学者の始祖として生きたソクラテス、そしてその弟子のプラトン、更にはその弟子アリストテレスと、ギリシア・ローマ時代を通して命懸けで探究され追及され続けて来た時代を象徴する叫び 》である。正に主のご降誕はこの真っ直中に成就した出来事だった。主のこの宣言は、彼らが求めて止まなかった答えの全てを持っておられるお方としての権威あるおことばなのだ。
 「真理」とは、人として知り、信ずべき神の御旨の啓示、開陳、そこには倫理的、道徳的生き方、在り方、・・・存在の意義と目的の全てを意味するが、主が「真理」であると言った場合、その人となりと無関係ではない、遊離してはいない、1章14節《 受肉した真理 》だという点を留意すべき。

③ 「わたしが・・・いのちなのです」とは?

 真理であるこのお方は、真理をもっていのちをもたらすお方だと言ってくださる。主ご自身が語られるところに生きるお方として語られた。
 聖書の中心的メッセージは、マタイ22章37~40節 「『・・・心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」と、主は《 実にここに模範として生きられた上で 》語られた。
 即ち、聖父の御心に全き従順をもって生涯を貫かれ、13章34節b 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、極めて自己中心の人間をして、主に似せて造り変える「いのち」を与えるお方。
 ローマ8章3、4節 「律法の要求が満たされるため」と。

※ 「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに・・・」と権威をもって言われる主との関係を正されつつの日々を!!

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