聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 48


ヨハネの福音書14章1~4節

 先週は、闇の中に急いだユダの裏切りにおぞましい罪の現実を見て心騒がれた主が、31節 「今、人の子は栄光を受け」たと驚くべき宣言をもって残す弟子たちと交わした《 16章まで続く 極めて重要な遺言的対談の始まり 》に注目した。
 この「今」とは、紛れもなくユダの裏切りが決定的なものとなったその時であるが、その直後、主は裏切ったユダを聖父に委ゆだね、「人の子は栄光【栄誉、高揚】を受け・・・」と言われた!!
 メリル・C・テニイは、この「栄光を受ける」とは、“ 主のご生涯で神の目的が最高度に達成されたイエスの死を指すもの ” と言っている。主はご自身がお受けになるこの受難【最大の尊厳の剥奪】こそ、最高の栄光、光栄、名誉、高揚と計算されたのだ。何という崇高な価値観!!
 ところが目の前にいる弟子たちには、到底 理解出来るものではなかった為、主はその後、弟子たちの心の準備に取り掛かられたのが、13章33節~16章までの対話なのだ。
 先ずの取り掛かりが、34節 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい」の勧めだった。

ⅰ それは、35節《 宣教者の条件 》だから。

ⅱ それは、34節b《 実践可能とされた在り方 》だから。

ⅲ その為には、先ず、主の聖前に激しく泣くことに始まると。ペテロのように、「あなたのためなら」と言ったものの 出来なかった自分を知り、また知り続け、謙って十字架の死に与り続けること。自らの霊的状態に満足する者は、その限りではなく、ここに生きるようにされることは皆無。

※ この勧めから始まる弟子への準備に注視していきたい、と。


 今朝は、先週の「互いに愛し合いなさい」に次いで、14章1節 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と命じられたおことばに注目したい。
 主が、ユダが席を立って闇の中に消えて行ってから始められた弟子たちとの対談で、13章33節 「子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。・・・わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言われ、又それを聞いて心配したペテロが、同36節 「主よ、どこに・・・」と尋ねると、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」と言われた。
 主が「心を騒がせてはなりません」と仰ったのは、主のこれらのおことばを受けた弟子たちが最も必要とした命令であったからだ。
 それもその筈、最後の晩餐の席は、弟子たちの話題が、十字架を目前にしておられる主をよそに互いの優劣を議論することにあった為、厳かな雰囲気とは程遠いものであったが、その弟子たちも、次第にただならぬ気配を感じるようになって行ったからだ。主から《 裏切る者がいること、互いの優劣を競い合っていたものの少なからず年長のペテロには一目置いていたであろうその彼にさえも!! 「三度わたしを知らないと言います」との予告、あなたがたを残して去って行く、など 》と、耳にするにつれて恐怖で怯え始めていたから。
 俄にわかに、エルサレム中の主への殺気立つ気運の高まりを認めざるを得なくされて来たことでもあったから。
 そこで命じられた※1節は後々、弟子たちを奮い立たせたおことばとなった筈。何故なら、この十一弟子は皆、直後 致命的挫折感に打ちのめされるが、1節 詳訳 「神を信じ【結び付き、信頼し】、又わたしを信じ【結び付き、信頼し、より頼みなさい】」に従い、殉教者として生涯を全うした人々だから。

この命令は:

① 主ご自身が、ユダの裏切りに《 神への反逆性という憎悪すべきおぞましい罪を見て 》13章21節 「心が騒」ぐという経験をされた上でのおことばだった。

 「神を信じ【神に結び付き、信頼し】・・・なさい」とは、紛れもなく主ご自身こそ、「神を信じ」ることによって騒ぐ心が取り除かれたからだ。
 そうだったからこそ、31節 「ユダが出て行ったとき・・・『今、人の子は栄光を受け・・・』」と言うことがお出来だったのだ!!
 主をして《 受難を栄光と計算させた恵みの経験 》を、聖父と固く結び付くことによって得たとの証しでもある。
 更には、ご自身を神ご自身だとして聖父と同等の位置に置かれて、「信じなさい」と明言されたのも《 贖あがないの成就を勝ち取っておられる信仰 》の証しなのだ。
 ユダを闇に追い込んだ神に背く罪に心騒ぎつつも、その罪を引き受ける十字架の死。ゲツセマネでは、「この杯をわたしから取り去ってください」とまで祈られたが、恐怖に打ち勝たれた。それは、聖父《 主ご自身を無傷の子羊と認めて死からよみがえらせるお方 》と固く結び付かれたから。

② 2節 「わたしの父の家には住む所がたくさんあります」と、弟子たちを天の御国への希望に置かせるおことばだった。

 弟子たちが主を失うことは、生きる望みの喪失!!
 弟子たちの全てを知る主が、2節b 「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われた「住む所」とは、「詳訳:憩いの家」なのだ。そして直ちに、3節 「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」と、ご自身の再臨の約束と、4節 詳訳 「わたしがどこに行こうとしているか、その場所への道をあなたがたは知っている」と究極の望みを明言された。弟子たちには、未だかつて持ち合わせることのなかったであろう危機感をもって、主の語られるところに厳粛さを覚えながら全存在を傾けたに違いない。
 使徒ヨハネが御霊に感じて※黙示録21章1~8節で託されて明かした、「※2 ・・・整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た」とある《 その都 》こそ、「神は人々とともに住」む、主の指差された「憩いの家」なのだ。
 そして、7節 「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし・・・」とは何と厳粛なことか!!

※ 「憩いの家」をより身近に覚えて勝利を得るよう激励して下さった主を仰ぎたい!!

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