聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 47


ヨハネの福音書13章31~38節

 先回は、21節にユダへの《 主の極みまでの愛 》に学んだ。
 この「心が騒いだ」は、これまで三度出ているが、何れも 死をより現実的なものとして直視された時の《 魂の激しい苦痛 》。ここでは、人類に死をもたらした根本原因を、ユダの裏切りに見た反逆性【ローマ1章21節 「神を知っていながら、神を神として崇めず、感謝もせず、かえってその思いはむなしく・・・その鈍い心は暗く」、28節 「神を知ることに価値を認めなかった」】罪に結果する死を直視されて心を騒がされた。その心騒ぐ中で《 ユダに顕あらわされた極みまでの愛 》とは?

ⅰ ユダの足を洗われた主の愛。
 ユダはどの様な気持ちで受けたのか? 裏切る者と知りつつ、ユダの行方を気遣って洗われた主のお気持ちは? 大祭司の下に走ったユダの足。悪びれもなく戻って晩餐の席に着いた足を洗われるまま。彼の足を洗われる主の手は、悔い改める気はないのか? 今からでも遅くはないのだが・・・これで私との関係を断つのか? の声。ユダからの反応はなかった。

ⅱ 裏切り者の名を明言されなかった主の愛。
 主は、ペテロの指示でヨハネからの、25節 「主よ、それはだれ」に、唯、26節 「・・・その人です」とのみ。明言は、何らかの騒動を起こすと考えられたからでは? しかし、ユダだけは裏切りが気付かれていることを知る必要から。主と本人のみでの取り扱い。あくまでも彼の悔い改めを極限まで求める主の愛。何とユダは※30節 「・・・すぐに出て行った」。

※ 主のユダへの極限までの愛を覚える今、主の抱かれる魂への重荷に与り、主への従順を告白して新年に備えたいと。


 今朝は、闇の中に急いだユダの裏切りにおぞましい死の現実を見て心騒がせられた主が、31節 「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました」と驚くべき宣言をもって、残る弟子たちとの《 16章まで続く 極めて重要な遺言的対談の始まり 》に注目したい。
 この「今」とは、27節 「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った」、30節 「パン切れを受けると、すぐに出て行った」この時からである。
 ユダの裏切りが決定的なものとなったその時である。
 ユダは、主が、26節 「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です」と言われて、自分の裏切りが気付かれたことが分かった時点で、もし回心する気持ちが表せていたならば、幾らでも猶予が与えられていた。2節 「悪魔は既に・・・ユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた」が、主が彼の足を洗いつつ、彼の心に問い掛けておられる間、揺れる心に正直になろうとする思いを抱きさえすれば良かったにも拘らず、彼は、闇を愛し闇を選択して主の愛を振り切って出て行った、その今。
 しかしその直後、主は聖父に裏切ったユダを委ゆだね、彼への個人的な思いをも委ねて、「人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました」と言われたとは!!
 31節 詳訳 「彼が去った時、イエスは言われた。『いま、人の子は栄光を受けたのである〈今や彼はその栄光、栄誉、高揚を勝ち得たのである〉。又神は彼によって栄光を受けられた』」とあるが、何という信仰の輝きを見ることか!!

 メリル・C・テニイは、この「栄光を受ける」という言葉は、限定された意味で使われていて《 イエスの生涯のうちで神の目的が最高度に達成されたことを指している ⇒ イエスの死を指すものとして 》用いていると言っているが、然り。
 7章39節 「・・・イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである」、12章23節 「人の子が栄光を受ける時が来ました」、17章1節 「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」とあるが、皆、主ご自身が受難によって聖父の聖名が崇められることを願われてのこと。
 ピリピ2章6節 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず」から始めて、11節 「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」との明言がある。
 主は、ユダの裏切りが決定的なものと見届けられた時、ご自身の十字架の死を決定的なものと見做し、直ちに《 その受難を栄光の時 》と宣言されたということ。
 主のこのご自身がお受けになる受難【最大の尊厳の剥奪】こそ、最高の栄光、光栄、名誉、高揚と計算されたのだ!!
 何という崇高な価値観、天的価値観であることか!!
 ところが目の前にいる弟子たちには、到底理解することも、求めることだにしない、と言うより心に決して思い描くことすら出来ない有様だったが、これこそ主の在り方だった。
 そこで主はその後、弟子たちの心の準備に取り掛かられるのが、33節~16章までの会話なのだ。先ずの取り掛かりが、34節 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい」の勧めだった。

① それは、35節 「互いの間に愛があるなら・・・あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」と《 宣教者の条件 》だから。

 彼らの晩餐での会話が、自分たちの優劣を競い合うという、もっぱら求めが地上的栄誉心に関心があることへのメス入れを主はされた。
 宣教は、先ず最も近い隣人との愛の関係【第一コリント13章】の確立こそ、外への拡がりとなるから。

② それは最早、実践可能とされた在り方だから。

 34節b 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、既に主から受けたから。

③ その為には?

 先ず、37節b 「あなたのためなら、いのちも捨てます」と豪語したが、実は、38節 「イエスは言われた。『わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。』」と言われる主の聖前に、そうなる事実を認めて、激しく泣くこと【ルカ22章54~62】に始まる。
 ペテロのように「あなたのためなら」とは言ったものの、出来ない自分と知り、知り続け、その都度、謙って十字架の死に与り続け、聖霊の注ぎを新たに受け続けることによる。
 自らの霊的現状に満足する限り、ここに生きることは皆無。

※ この勧めから始まる弟子への最終準備に注視を!!

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