エゼキエル書45章18~25節
2020年の年頭に当たり、心して聖書の語られるところに耳を傾けて 新たな踏み出しをさせて頂きたい。
エゼキエル書は、「神は強められる」の意を持つエゼキエルが聖霊によって《 自らの霊的経験を日記のように綴りながら、捕囚期間における使信 》を伝えている書である。
このエゼキエルは、1章1~3節を見ると、30歳【2節の文脈から、25歳までは祭司としての訓練を母国で受け、その後一万人のユダヤ人と共にバビロンに捕虜として移住して5年目を迎えていた】の時、神から預言者としての召しを受け、捕囚民に仕えることになった人物。
その後 捕囚民は、5年後にエルサレムの滅亡を見ることになるが、エゼキエルは、神にその様な裁きを下さざるを得なくさせているのは捕囚民の反逆故と恐れずに伝え続けた。しかし遂に神からの鉄槌が下ってエルサレムの滅亡の日を迎え、民は母国に下ったその惨事に気落ちするが、今度は神から幻を見せられては彼らに望みを持つように預言する。
特に、37章1~14節には、苦悩するエゼキエルと、彼を協力者として求める神の働き掛けがなされているのを見る。「主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。主は私に言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。』私は答えた。『神、主よ、あなたがよくご存知です。』・・・」のやり取り・・・。
今朝読んだ※45章の箇所は、40章から始まる幻で、1、2節 「私たちが捕囚となって二十五年目の年【エゼキエル50歳】の初め、その月の十日、都が占領されてから十四年目のちょうどその日に、主の御手が私の上にあり、私をそこへ連れて行った。すなわち、神々しい幻のうちに私はイスラエルの・・・」と見せられた《 新しい地と新しい神殿 》について語った使信。
南ユダの背信の罪によって、神の臨在すべき神殿から神は後ろ髪を引かれるように離れ去る姿が、エゼキエル書前半にあったが、今や、神の臨在が回復し、遂には、48章35節 「主はそこにおられる」の名をもって締め括っている。
これをヨハネは、黙示録21章22~27節で展望している。「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである」。
エゼキエルが生きる望みを失っている捕囚民に語った使信は、迫害下の教会を激励するヨハネに託された使信であり、そして異変が至る所で発生している終末のクリスチャンに託されている使信なのでは?
以前、B.F.P【ブリッジス・フォー・ピース】発行『OLIVE Life』の購読を勧めたことがあったが、昨年12月号に “ エゼキエル書に啓示された神 ” のコラムに現今への警鐘を聞いた。
黙示録21章27節は、誰がそこに住むのかを示しているが、エゼキエル45章18節の聖句に戻って姿勢を正したい。
① この「第一の月の一日に」とは、ユダヤ歴では、アビブ(バビロン捕囚後ニサン)の月であるが、神が、出エジプト12章2節 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」と、イスラエルの為に新年を制定された元旦のこと。とするならば、18節 「神である主はこう言われる。『第一の月の一日に、あなたは傷のない若い雄牛を取り、聖所から罪を除かなければならない。』」に従うことこそ、元旦礼拝で為すべきと弁わきまえたい。
「傷のない若い雄牛を取り」とは、あの出エジプトの出来事、即ち、屠った子羊の血を玄関の鴨居に塗って神の裁きを過ぎ越すという霊的経験に与ることを意識すること。
と同時に、46章には、1、2節 「安息日には・・・全焼のささげ物と、交わりのいけにえを献げ・・・礼拝する」、13~15節 「あなたは毎日、傷のない一歳の子羊一匹を、全焼のささげ物【過ぎ去った週に受けた恵みに応えるべく、新たな献身の表明のためのささげ物。アブラハムがイサクを捧げるように指示されたのは、全焼のささげ物だった。神への絶対的な信頼と献身の表明である】として主に献げなければならない。これを毎朝、献げなければならない。それに添えて、毎朝、六分の一エパの穀物のささげ物【感謝の表明】、上等の小麦粉に振りかけるための油三分の一ヒンを献げる。これが主への穀物のささげ物であり、永遠に続く掟である。こうして、・・・毎朝、献げなければならない」と。
第一コリント11章23~26節には、「・・・主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです」と、日々聖餐式に与ること。
② そうすることによって、18節 「聖所から罪を除かなければならない」、20節 「神殿のために宥なだめを行わなければならない」と。
何故なら、神殿であるキリスト者に内住する聖霊の満ち満ちるところなり、47章1節 「・・・水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた」とあり、聖霊を象徴する水が遂には、5~12節 「川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。・・・非常に多くの木があった。彼は私に言った。『この水は・・・海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。・・・毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。』」という《 聖霊による氾濫的な結実 》が予告されているから。
※ 年頭に当たり、主の為にと様々決意、計画を? しかし先ず、十字架の贖あがないの霊的経験の確認と、朝毎、週毎に主への礼拝、感謝を捧げ、終末に聖霊の働きを神殿である私たちを通して・・・。主の為に豊かな実を結んで頂きたい。
2020年の年頭に当たり、心して聖書の語られるところに耳を傾けて 新たな踏み出しをさせて頂きたい。
エゼキエル書は、「神は強められる」の意を持つエゼキエルが聖霊によって《 自らの霊的経験を日記のように綴りながら、捕囚期間における使信 》を伝えている書である。
このエゼキエルは、1章1~3節を見ると、30歳【2節の文脈から、25歳までは祭司としての訓練を母国で受け、その後一万人のユダヤ人と共にバビロンに捕虜として移住して5年目を迎えていた】の時、神から預言者としての召しを受け、捕囚民に仕えることになった人物。
その後 捕囚民は、5年後にエルサレムの滅亡を見ることになるが、エゼキエルは、神にその様な裁きを下さざるを得なくさせているのは捕囚民の反逆故と恐れずに伝え続けた。しかし遂に神からの鉄槌が下ってエルサレムの滅亡の日を迎え、民は母国に下ったその惨事に気落ちするが、今度は神から幻を見せられては彼らに望みを持つように預言する。
特に、37章1~14節には、苦悩するエゼキエルと、彼を協力者として求める神の働き掛けがなされているのを見る。「主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。主は私に言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。』私は答えた。『神、主よ、あなたがよくご存知です。』・・・」のやり取り・・・。
今朝読んだ※45章の箇所は、40章から始まる幻で、1、2節 「私たちが捕囚となって二十五年目の年【エゼキエル50歳】の初め、その月の十日、都が占領されてから十四年目のちょうどその日に、主の御手が私の上にあり、私をそこへ連れて行った。すなわち、神々しい幻のうちに私はイスラエルの・・・」と見せられた《 新しい地と新しい神殿 》について語った使信。
南ユダの背信の罪によって、神の臨在すべき神殿から神は後ろ髪を引かれるように離れ去る姿が、エゼキエル書前半にあったが、今や、神の臨在が回復し、遂には、48章35節 「主はそこにおられる」の名をもって締め括っている。
これをヨハネは、黙示録21章22~27節で展望している。「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである」。
エゼキエルが生きる望みを失っている捕囚民に語った使信は、迫害下の教会を激励するヨハネに託された使信であり、そして異変が至る所で発生している終末のクリスチャンに託されている使信なのでは?
以前、B.F.P【ブリッジス・フォー・ピース】発行『OLIVE Life』の購読を勧めたことがあったが、昨年12月号に “ エゼキエル書に啓示された神 ” のコラムに現今への警鐘を聞いた。
黙示録21章27節は、誰がそこに住むのかを示しているが、エゼキエル45章18節の聖句に戻って姿勢を正したい。
① この「第一の月の一日に」とは、ユダヤ歴では、アビブ(バビロン捕囚後ニサン)の月であるが、神が、出エジプト12章2節 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」と、イスラエルの為に新年を制定された元旦のこと。とするならば、18節 「神である主はこう言われる。『第一の月の一日に、あなたは傷のない若い雄牛を取り、聖所から罪を除かなければならない。』」に従うことこそ、元旦礼拝で為すべきと弁わきまえたい。
「傷のない若い雄牛を取り」とは、あの出エジプトの出来事、即ち、屠った子羊の血を玄関の鴨居に塗って神の裁きを過ぎ越すという霊的経験に与ることを意識すること。
と同時に、46章には、1、2節 「安息日には・・・全焼のささげ物と、交わりのいけにえを献げ・・・礼拝する」、13~15節 「あなたは毎日、傷のない一歳の子羊一匹を、全焼のささげ物【過ぎ去った週に受けた恵みに応えるべく、新たな献身の表明のためのささげ物。アブラハムがイサクを捧げるように指示されたのは、全焼のささげ物だった。神への絶対的な信頼と献身の表明である】として主に献げなければならない。これを毎朝、献げなければならない。それに添えて、毎朝、六分の一エパの穀物のささげ物【感謝の表明】、上等の小麦粉に振りかけるための油三分の一ヒンを献げる。これが主への穀物のささげ物であり、永遠に続く掟である。こうして、・・・毎朝、献げなければならない」と。
第一コリント11章23~26節には、「・・・主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです」と、日々聖餐式に与ること。
② そうすることによって、18節 「聖所から罪を除かなければならない」、20節 「神殿のために宥なだめを行わなければならない」と。
何故なら、神殿であるキリスト者に内住する聖霊の満ち満ちるところなり、47章1節 「・・・水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた」とあり、聖霊を象徴する水が遂には、5~12節 「川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。・・・非常に多くの木があった。彼は私に言った。『この水は・・・海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。・・・毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。』」という《 聖霊による氾濫的な結実 》が予告されているから。
※ 年頭に当たり、主の為にと様々決意、計画を? しかし先ず、十字架の贖あがないの霊的経験の確認と、朝毎、週毎に主への礼拝、感謝を捧げ、終末に聖霊の働きを神殿である私たちを通して・・・。主の為に豊かな実を結んで頂きたい。
この記事へのコメント