聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 46


ヨハネの福音書13章21~30節

 先週は、1節 「過越しの祭りの前の」木曜日、最後の晩餐で「イエスは、彼らを最後(※この上なく、極み)まで愛された」とある主のお姿に注目してクリスマスの Message とした。
 この晩餐は、ルカ22章15節 「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました」との主の切なるお気持ちによるものと。ところが主が目の当たりにされた光景は、主のそのお心とは裏腹な弟子たち。夕食を始めてから幾らかして、主は※5節 「たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い」始められた。本来、洗足は夕食が始まる前になされる筈だが、誰も率先してしもべの立場を取らずにいる中、主は弟子に指図 せずに、ご自身 立ち上がって行われたのがこの洗足の出来事。
 ここに、主の《 極みまでの愛 》を学んだ。

ⅰ 《 極みまでの愛 》は相手の態度如何に左右されない。
 2節でユダの裏切りを知って、又、やがての要職に就くことに関心を寄せ、臆病さの故に主を独り放り出す【ルカによる】彼らであると知りつつも動揺されずに注がれる愛。

ⅱ 《 極みまでの愛 》は、聖父との崇高な関係から生まれる。
 1節 詳訳 「知って〈十分意識して〉おられた」、3、4節 「知りながら〈十分意識して〉」とある。聖父に認められることを以って至上の栄誉とする高潔な喜びこそが、主をして最も卑しい立場に身を置かせた!! 天の視座を持つ生活!!

ⅲ 《 極みまでの愛 》は、私たちにも可能であること。
 14、15節 「・・・あなたがたもまた・・・」 ⇒ 第一ヨハネ3章16節。

※ この洗足の解説は《 ピリピ2章1~11節 》であると。


 今朝は、21節 「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。』」と言われたおことばから、引き続き《 主の 極みまで弟子たちを愛された愛 》に学びたい。
 この「心が騒いだ」と表現された言葉は、これまでに三度出ている。ラザロの復活の時に二度、11章33節 「霊に憤りを覚え、心を騒がせて(心に激しい動揺を感じ、苦しまれ、魂に苛立ちを覚え)」、同38節 「心のうちに憤りを覚えながら(深い動揺を覚え)」/12章27節 「今わたしの心は騒いでいる(苦しんでいる)」と、ギリシヤ人の何人かが、同21節 「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と尋ねて来た時とである。何れも、死をより現実的なものとして直視せざるを得なくされた時に覚えられた《 魂の激しい苦痛 》である。
 主は14章1節で、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と、今まで折に触れ聞いて来た《 主の最期 》が、いよいよ免れ得ない現実だと示されて不安と恐怖に襲われた弟子たちを案じつつ、厳格な面持ちで諭しておられるが、実は、ご自身も又、覚えられた苦悩だからこそ、親身に勧めておられる忠告なのだ。
 決して気休め的な無責任な口先だけのおことばではないと改めて覚えるべきなのだ。実に主の人の子として味わわなければならなくされた感情だったからだ。しかし主は、聖父を信頼することによって乗り越えておられるからこそ、確信をもって言っておられるおことばと頷うなずけるのではないか。

 但し主をして苦悩させたその激しいばかりの感情とは?
 弟子たちが経験する不安感を遥かに超越した、肉体を人の子として着て 生きておられる神ご自身だからこそ!!
 主でなければ味わうことのない苦悩!!
 ラザロの復活でのその感情は、墓を意識された時の霊的憤りで《 人類の罪の結果、余儀なくさせた死 》に対するもの。ギリシヤ人の来訪を切っ掛けに生じたその感情は、主に、「あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、 黙示録5章9節」と、やがて天での礼拝に与り、ご自身への賛美が捧げられる栄光を垣間見た瞬間、その前に経験すべき死を意識されたもの。そして今、人類に死をもたらした根本原因である《 ユダの裏切りに見る神への反逆性 》が肌身に突き刺さっておられる苦悩!!
 主はあくまでも、ユダに顕著な反逆性【ローマ1章21節 「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです」、28節 「彼らは神を知ることに価値を認めなかったので」】を持つ人々を聖父との和解に導いて救うことに献身されたお方。
 特に、主が聖父の意図された やがての福音宣教の為にと訓練すべく、ご自身の全てを傾けて寝食を共にした十二弟子の一人、しかも「ほめたたえる」の名を持つユダに見た《 ユダをがんじがらめに縛っている肉・神への反逆性 》に身の毛がよだつ感情を抱かれた。聖なるお方が、罪に結果する死を直視される時の《 心が騒ぐ 》感情なのだ。
 主が「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります」と言うことで主が「心が騒いだ」、ここに《 ユダへの極みまでの愛 》を見て Message としたい。

① ユダの足を洗われた主の愛。

 既に、食事の前に行うべき洗足を誰一人引き受ける様子のない中、主が一人一人の足を洗われたが、ユダはどの様な気持ちで受けたのか? 裏切る者と知りつつ、ユダの行方を気遣って洗われた主のお気持ちは? 12章、ナルドの香油でマリアを弁護された主に見切りをつけて主を売る為、大祭司の下に走ったユダの足。悪びれもなく戻って晩餐の席に着いた足を洗われるまま。彼の足を洗われる主の手は、悔い改める気はないのか? 今からでも遅くはないのだが これで私との関係を断つのか? ユダからの反応はなかった。

② 裏切り者の名を明言されなかった主の愛。

 主は、ペテロの指示でヨハネから、25節 「主よ、それはだれ」と問われた時、唯、26節 「・・・その人です」とのみ。実際、パン切れを受け取ったのがユダである故、分かっても不思議ではないが※28、29節。もし明言でもすれば、何らかの騒動が起こったからなのでは? ユダの裏切りを知るのは主と本人。その関係で取り扱われる《 あくまでも一人の悔い改めを極限まで求める主の愛 》。主はこの事実に心を騒がされたのだ。
 何と、自らの裏切りを見破られたユダの取った行動は、悔いる心の態度はなく、30節 「・・・すぐに出て行った」に。

※ 主の裏切る者への極みない愛を覚える今、主の抱かれる魂への重荷に与り、主への従順を告白して新年に備えたい!!

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