クリスマス記念礼拝『ヨハネの福音書』より 45


ヨハネの福音書13章1~20節

 先週は、主が、46節 「わたしは、光として世に来ました」、36節a 「光を信じなさい」と招かれたにも拘らず、37節 「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに・・・信じなかった」とある《 不信仰とは? 》について考えた。

ⅰ 37節 「・・・目の前で行われたのに・・・信じな」いこと。
 見たら信じると豪語する人がいるが、信仰は見たからと言って信じるものではないことが分かる。それは心の態度の問題、即ち、神の権威を認めたくないからであり、同時に自らの無力さを認めたくないとする頑かたくなさから。

ⅱ 40節 「主は彼らの目を見えないようにされた。・・・」との厳粛な末路を見る。
 この「主は・・・された」とは、主が彼らを頑なにされたのではなく、信じることを拒絶し続ける時、自らの首を自らの手で絞め、信じて救われないようにするの意。
 主はあくまでも、エゼキエル18章30~32節 「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない・・・。だから立ち返って、生きよ」と言われるお方。

ⅲ 42、43節 「議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ・・・告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである」と、絶えず人の反応とその結果を意識する時、公にすることを拒む。
 その彼らも、主の十字架刑による衝撃的なご受難を見た時、内密にしておく訳にはいかなくされ、大胆に総督ピラトに「取り降ろし」を願い出たことは幸いである。

※ 主を信じる事こそ、罪人の本文と弁わきまえて従いたいと。


 今朝は、1節 「過越しの祭りの前の」木曜日、十字架の日の前日、慎重に準備された一室での最後の晩餐と呼ばれている席でのこと、「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後(※この上なく、極み)まで愛された」とある主のお姿をクリスマスの Message として礼典に臨みたい。
 この晩餐は、ルカ22章15節 「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました(どんなに望んでいたことか)。」と言われた主の切なるお気持ちによるものだった。
 ところが主が目の当たりにされた光景は? 少しも主のそのお心とは裏腹な弟子たちの嘆かわしい雰囲気が漂っていると言わざるを得ないものだった。
 何故ならば、先ず食事のテーブルに着く時点で露わにされた光景から伺える。2節 「夕食の間のこと」、4節 「夕食の席から立ち上がって」とあるのは何を意味する? 夕食を始めてから幾らかの時の経過があったことを伝えているが、主は※5節 「それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い」始められたのだ。本来、洗足は夕食が始まる前になされる筈。一般的には、その家のしもべの務めであるが、内密に守られたこの席には、しもべは居なかった。
 従って、一行の中の誰かがその役目を買って出る必要があった。しかし残念ながら、一向にしもべの立場に身を置く者が現れず、そのうち食事が進んでいたのだ。
 その雰囲気をご覧になられた主は、弟子の誰かに指図せずにご自身が立ち上がって行われたのがこの洗足の出来事。
 主の《 極みまでの愛 》を学び、この愛にこそ、この世にご降誕下さった意義を見て、クリスマスを記念したい。

① 《 極みまでの愛 》は、相手の態度如何に左右されない。

 13章1~4節を詳訳で読むと、「・・・彼らをこの上なく愛された。※2 それで、夕食の間に、サタンは既に・・・ユダの心の中にイエスを裏切ろうとする考えを入れていたが、※3 イエスは父が・・・お与えになったこと、又自分が神から出て来て、今神に帰ろうとしていることを十分意識して、※4 夕食の席を立ち・・・拭き始められた」と、即ち《 極みまでの愛は、それで・・・拭き始められた 》という行為を生んだとなる。
 裏切るユダ、又、21節 「・・・ 一人が、わたしを裏切ります。」と伝えられた他の弟子たちは、22節 「当惑し、互いに顔を見合わせていた」とある。ルカ22章24節によると、主のお心に思いを寄せるどころか、「彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」と、やがての要職に就くことに関心を寄せる始末、臆病さの故に主を独り放り出す彼ら知りながらである。
 主にとっての緊張感高まる最後の闘いをよそに、あくまでも自己本位の弟子たちと知りながら「愛された。それで・・・拭き始められた」と。その彼らの態度如何で動揺されず、彼らの何ものにも妨げられずに注がれる愛。
 ローマ5章5a'~11節 「・・・不敬虔な者・・・罪人であったとき、キリストが・・・死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」とある《 神の愛 》

② 《 極みまでの愛 》は、聖父との崇高な関係から生まれる。

 1節 詳訳 「イエスはこの世を去って父のみ許もとに帰るべきご自分の時が来たことを知って〈十分意識して〉おられた」、3、4節 「イエスは父が全てのものをご自分の手にお与えになったこと、又自分が神から出て来て、今帰ろうとしていることを知りながら〈十分意識して〉夕食の席を立ち、上着を脱ぎ、しもべの手拭いを取って・・・」とある。
 やがて、その栄光ある天への凱旋という《 聖父に認められることを以って至上の栄誉とする高潔な喜び 》こそが、主をして最も卑しい立場に身を置かせた!!
 もし、12章43節 「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛」するならば、決して自ら進んで卑しいことには耐えられないのだ。やがて主は総督ピラトの下で審判されるが、19章10、11節に見られる主の権威ある自覚こそ、主をしてありもしない悪口雑言に耐えさせ、罪人に代わって罪ある者とされても動じることはなかった。むしろ、積極的にご自身を罪人として捧げられたのだ。

③ 《 極みまでの愛 》は、私たちにも可能であること。

 14、15節 「・・・あなたがたもまた・・・あなたがたもするようにと・・・示したのです」とは、罪人である私たちにとって、何という希望【第一ヨハネ3章16節】。

※ この洗足の解説は《 ピリピ2章1~11節 》であり、卑しくなられた主に礼拝を捧げ、主の十字架の血潮に与り続けたい。

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