礼拝《 待降節Ⅲ 》
ヨハネの福音書12章37~43節
先週は、主の※46節 「わたしは光として世に来ました」との証言は《 主のご降誕の意義を考えるのに、如何に的確な表現 》だったかを学んだ。それは既に冒頭、ヨハネによって明かされていたことであり、この証言をもって主が群衆との会話を終えられて「身を隠され」たことから。
ⅰ 何故主は、ご自身を「光として」と言われたのか?
主のお考えではなく、イザヤの預言の成就としての証言。
マタイは、バプテスマのヨハネ捕縛と同時に主が宣教を開始されたのを見て、イザヤ9章1、2節 「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。・・・異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」の成就としている。
ⅱ 主が「光として」来られた今、迎えた民の為すべきことは?
ヨハネ12章35、36節 「光を信じなさい」に従うこと。
ルカはその代表的人物として《 シメオンと女預言者アンナ 2章25~38節 》を紹介しているが、大多数のユダヤ人は彼らの様ではなかった。「闇」の理解の違いによった。前者は自らの罪を「闇」と認めて悲しみ《 罪からの解放者 》を求める人々だったが、後者は「闇」を圧制による束縛と見て《 政治的解放者 》を求めて主を拒んだことに。
「光」である主は、人々の心の闇を暴かれた。その時、47節 「聞いてそれを守らない者」、48節 「わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者」となるのか、それとも自らの暴かれた罪を認めて謙り、悔い改めるのか?
※ 罪こそ「闇」と認めた者に 救いをもたらす主に感謝をと!!
今朝は、先週主がご自身を光として、36節b 「光を信じなさい」と迫られ、更に、44~50節で「わたしを信じる者は・・・」と大きな声で言われた後、36節c 「イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠され」、その後、13章からの弟子たちとの最後の会談に移されることになるので、ヨハネによる挿入部分、37~43節の記事に学ぶ。
即ち、ヨハネは、36節a 詳訳 「あなたがたは、光を持っているうちに光を信じなさい」、そして更に、44節 「イエスは大きな声でこう言われた。『わたしを信じる者は・・・』」と続けようとした時、ところがふと!! 主の語られるところに決して信じようとしない頑かたくなな民たちの不信仰を見て嘆き、37節 「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに・・・信じなかった」と言わざるを得なくされたから。
そして、この悲しむべき現実を見たヨハネは、イザヤ53章を引用し、主に対する群衆たちの反応と、イザヤがかつて、南ユダの危機的状況を迎えた時、神の使信を伝える為に預言者として派遣されたが、伝えれば伝える程、民たちの反応はより反逆的になるとの ことばと重ねた。
いやむしろ、38節 「それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。・・・『主よ・・・』」と納得した。即ちヨハネは、41節 「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである」と、イザヤ自身が遭遇した民たちからの容赦なき反抗は、やがての救い主として来られる主に対して民が取るであろう態度を聖霊によって知らされたのだと知って、厳粛に受け止めたのだ。
ここで、37節 「イエスを信じなかった」という《 不信仰について 》不信仰とはどのようなことなのか? を考えたい。
① 37節 「・・・目の前で行われたのに・・・信じな」いこと。
出エジプトに際して、主はモーセに幾多の奇跡を行わせて、エジプト王を驚愕させた。その都度、降参してはイスラエルの民を去らせようとするが、喉元のどもと過ぎれば熱さを忘れる王はそれで屈することはなかった。その為 主の鉄槌が下り、エジプト国民全家の長子が打たれることに。そこで初めて目覚め、やむなくイスラエル人を追放するが、それでも最後まで不従順、頑ななままを貫く。本来、信じる以外に道がないのだが。
見たら信じると豪語する人がいるが、信仰は見たからといって持つものではない。それは心の問題だから。見た王は、より頑なになった。主の権威を認めたくないからであり、同時に自らの無力さを認めたくないだけのことだから。
② 40節 「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように」との厳粛な末路を。
この「主は・・・された」とは、主がそうなるように仕向けられたように見えるが、否、信じることを拒絶する時、自らの首を自らの手で縛り、身動きを取れなくさせる。マタイ12章31、32節 「人は・・・御霊に対する冒涜は赦されません。また、・・・聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」とは、極めて厳粛な結果!!
主は、エゼキエル18章30~32節 「・・・立ち返り、あなたがたのすべての背きから身を翻せ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない ― 神である主のことば ― 。だから立ち返って、生きよ」と言われる。
③ 42、43節 「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。・・・神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである」と。
信仰を持ったにも拘らず、公にすることが出来なかった人々がおり、その中に、19章38、39節 「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフ」と、「以前、夜イエスのところに来たニコデモ」とがいたが、その不信仰の原因は、「詳訳:神からの信用よりも、人からの信用をより高く評価した」ことにある。
絶えず人が意識される時、誰しもが陥る過ちである。
しかしその彼らも、主の十字架刑による衝撃的なご受難を見た時、内密にしておく訳にはいかなくされ、勇気を出して総督ピラトに「取り降ろし」を願い出た初めての大胆さ!!
※ 主を信じる事こそ、罪人の本文と弁わきまえて従いたい!!
ヨハネの福音書12章37~43節
先週は、主の※46節 「わたしは光として世に来ました」との証言は《 主のご降誕の意義を考えるのに、如何に的確な表現 》だったかを学んだ。それは既に冒頭、ヨハネによって明かされていたことであり、この証言をもって主が群衆との会話を終えられて「身を隠され」たことから。
ⅰ 何故主は、ご自身を「光として」と言われたのか?
主のお考えではなく、イザヤの預言の成就としての証言。
マタイは、バプテスマのヨハネ捕縛と同時に主が宣教を開始されたのを見て、イザヤ9章1、2節 「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。・・・異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」の成就としている。
ⅱ 主が「光として」来られた今、迎えた民の為すべきことは?
ヨハネ12章35、36節 「光を信じなさい」に従うこと。
ルカはその代表的人物として《 シメオンと女預言者アンナ 2章25~38節 》を紹介しているが、大多数のユダヤ人は彼らの様ではなかった。「闇」の理解の違いによった。前者は自らの罪を「闇」と認めて悲しみ《 罪からの解放者 》を求める人々だったが、後者は「闇」を圧制による束縛と見て《 政治的解放者 》を求めて主を拒んだことに。
「光」である主は、人々の心の闇を暴かれた。その時、47節 「聞いてそれを守らない者」、48節 「わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者」となるのか、それとも自らの暴かれた罪を認めて謙り、悔い改めるのか?
※ 罪こそ「闇」と認めた者に 救いをもたらす主に感謝をと!!
今朝は、先週主がご自身を光として、36節b 「光を信じなさい」と迫られ、更に、44~50節で「わたしを信じる者は・・・」と大きな声で言われた後、36節c 「イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠され」、その後、13章からの弟子たちとの最後の会談に移されることになるので、ヨハネによる挿入部分、37~43節の記事に学ぶ。
即ち、ヨハネは、36節a 詳訳 「あなたがたは、光を持っているうちに光を信じなさい」、そして更に、44節 「イエスは大きな声でこう言われた。『わたしを信じる者は・・・』」と続けようとした時、ところがふと!! 主の語られるところに決して信じようとしない頑かたくなな民たちの不信仰を見て嘆き、37節 「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに・・・信じなかった」と言わざるを得なくされたから。
そして、この悲しむべき現実を見たヨハネは、イザヤ53章を引用し、主に対する群衆たちの反応と、イザヤがかつて、南ユダの危機的状況を迎えた時、神の使信を伝える為に預言者として派遣されたが、伝えれば伝える程、民たちの反応はより反逆的になるとの ことばと重ねた。
いやむしろ、38節 「それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。・・・『主よ・・・』」と納得した。即ちヨハネは、41節 「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである」と、イザヤ自身が遭遇した民たちからの容赦なき反抗は、やがての救い主として来られる主に対して民が取るであろう態度を聖霊によって知らされたのだと知って、厳粛に受け止めたのだ。
ここで、37節 「イエスを信じなかった」という《 不信仰について 》不信仰とはどのようなことなのか? を考えたい。
① 37節 「・・・目の前で行われたのに・・・信じな」いこと。
出エジプトに際して、主はモーセに幾多の奇跡を行わせて、エジプト王を驚愕させた。その都度、降参してはイスラエルの民を去らせようとするが、喉元のどもと過ぎれば熱さを忘れる王はそれで屈することはなかった。その為 主の鉄槌が下り、エジプト国民全家の長子が打たれることに。そこで初めて目覚め、やむなくイスラエル人を追放するが、それでも最後まで不従順、頑ななままを貫く。本来、信じる以外に道がないのだが。
見たら信じると豪語する人がいるが、信仰は見たからといって持つものではない。それは心の問題だから。見た王は、より頑なになった。主の権威を認めたくないからであり、同時に自らの無力さを認めたくないだけのことだから。
② 40節 「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように」との厳粛な末路を。
この「主は・・・された」とは、主がそうなるように仕向けられたように見えるが、否、信じることを拒絶する時、自らの首を自らの手で縛り、身動きを取れなくさせる。マタイ12章31、32節 「人は・・・御霊に対する冒涜は赦されません。また、・・・聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」とは、極めて厳粛な結果!!
主は、エゼキエル18章30~32節 「・・・立ち返り、あなたがたのすべての背きから身を翻せ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない ― 神である主のことば ― 。だから立ち返って、生きよ」と言われる。
③ 42、43節 「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。・・・神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである」と。
信仰を持ったにも拘らず、公にすることが出来なかった人々がおり、その中に、19章38、39節 「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフ」と、「以前、夜イエスのところに来たニコデモ」とがいたが、その不信仰の原因は、「詳訳:神からの信用よりも、人からの信用をより高く評価した」ことにある。
絶えず人が意識される時、誰しもが陥る過ちである。
しかしその彼らも、主の十字架刑による衝撃的なご受難を見た時、内密にしておく訳にはいかなくされ、勇気を出して総督ピラトに「取り降ろし」を願い出た初めての大胆さ!!
※ 主を信じる事こそ、罪人の本文と弁わきまえて従いたい!!
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