聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 43


礼拝《 待降節Ⅱ 》
ヨハネの福音書12章27~36、44~50節

 先週は、クリスマス礼拝に向けて《 待降節 》の初めに、主のご降誕の意義が凝縮された聖句の一つ、24節 「しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」を味わった。ユダヤ教改宗者のギリシア人たちが主に面会を求めて来た動きを契機に、※23節 「人の子が栄光を受ける時が来ました」と、黙示録5章9~14節 「あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖あがない」とある《 礼拝される栄光 》であるが、この栄光の前に通過する受難について注意を喚起すべく語られた。

ⅰ 「地に落ちて」と。
 ご自身が、ベツレヘムの家畜小屋に産声をあげる瞬間を迎えられた聖父への従順の出来事 ⇒ ピリピ2章6、7節。

ⅱ しかし、もし「死ななければ、一粒のままです」と。
 せっかくの謙卑をもってのご降誕に聖父への従順という崇高な献身があったとしても、27節a’ 「父よ・・・わたしをお救いください」を貫くなら贖いが成就せず空しく終わるとの意。

ⅲ しかし、もし「死ぬなら、豊かな実を結びます」と。
 27c、28節 「いや」と、個人的願いを捨てて、聖父のご降誕の目的・人類の身代わりの死を求め、その従順の喜びを貫くなら、「豊かな実 ⇒ 贖いの成就による救いの実」を結ぶと。

※ 主の聖父への従順によって救いに与ったお互い、26節 詳訳 「誰でもわたしに仕えようと思う者は、何時もわたしに従う(主に倣う)べき」に聞き、主が、24節の自然界の法則をご自身にあてがい《 死による結実 》という法則に生きるべく勧められたこの招きに心してお従いしたいと。


 今朝は、46節 「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです」と言われたおことばに学びたい。主が「光として」来られたとは、ヨハネが冒頭で伝えていた証しだった。1章4、5節 「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている」、9節 「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」と。
 そして主ご自身が、3章19、20節 「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」、8章12節 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」と証しして来られたこと。
 しかしこの証しも、今朝のこの部分での証言を最後に、36節c 「イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された」とあり、ここで群衆たちとの直接的な会話が終わる。
 13章からの記事は、弟子たちとだけで過ごされた《 最後の晩餐 》での時間に割かれ、その後迎えられるゲツセマネでの捕縛、十字架、そして復活となる。
 主が直接群衆たちに話されて後、「彼らから身を隠された」ことから、ヨハネは主を証しするのに福音書の初めと終わりとで、12章46節 「わたしは光として世に来ました。」と証ししたことになる。このことから《 主のご降誕の意義を考えるのに如何に重要かつ的確な 》表現だったかを窺うかがい知る。

① 何故主は、ご自身を「光として」と言われたのか?

 主はいつでもご自身を「光」と言われる時には、光とは対照的な状態としての「闇の中にとどまることのないように」と、その目的を明確にされたことから分かる。
 但し主のお考えによったのではなく、イザヤが既に預言していたことから、主はそのおことばの成就として言われた。
 イザヤ9章1、2節 「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地(ガリラヤ地方の西部と東部)は辱めを受けたが、後には海沿いの道(ダマスコからエジプトへの道)、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤ(異邦人に踏みにじられている)は栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く・・・」とあり、政治的には間もなく北イスラエルがアッシリアによって陥落し、その後南ユダも又同様の危機的状況に置かれ、社会的には貧富の差が甚だしく、貧困に悩む人々の悲惨さが増し、宗教的には神を畏れる畏れが全くなく堕落しきっている真っ直中で、イザヤ【永遠者は救いの意】は希望の預言者として《 救い主の誕生による希望とその約束 》を語った内容のもの。
 同6、7節 「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる・・・」と続く。
 実に、マタイは4章12~17節で、バプテスマのヨハネ捕縛と同時に主の宣教を開始されたのを見た時、このイザヤの預言が成就したと言及したのだ。即ち主を《 待望されていた救い主として迎えられるべきだ 》と言っているのだ。

② 「光として」来られた主によって、「・・・大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」今を迎えた民の為すべきことは?

 ヨハネ12章35節 「・・・闇があなたがたを襲うことがない【打ち勝たない】ように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい【詳訳:光に従って歩き続けなさい】」、36節 「光を信じなさい【光に対して信仰を持ちなさい】」に従うこと。
 ルカ2章25~38節では、この光を信仰を持って待ち望んでいた人々がいたと伝えている ⇒ 《 シメオンと女預言者 》。
 しかし大多数のユダヤ人は、彼らのようではなかった。それは「闇」の意味するところの理解の違いによる。
 シメオンは※2章30節 「あなたの御救いを見た」、アンナは※同38節 「エルサレムの贖い」と言って神を賛美した。それは、自らの内的罪の事実を「闇」と認めて悲しみ《 罪からの解放者 》を求める人々だったからだ。
 しかし、「闇」を圧制者による束縛と見て《 政治的解放者 》を求める人々は、「光」として来られた主を拒んだ。
 「光」である主は、人々の心の闇を暴かれた。その時、 47節 「聞いてそれを守らない者」、48節 「わたしを拒み、 わたしのことばを受け入れない者」となるのか、それとも自らの暴かれた罪を認めて謙り、悔い改めるのか?

※ 主が「光として世に来」られたのは、光として罪人の内面を照らして闇を暴き、その闇の罪の事実からの救いをもたらす為。悔い改めて救いに与ることを願われる主に感謝を!!

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