礼拝《 待降節Ⅰ 》
ヨハネの福音書12章20~28節
先週、いよいよ受難週初めの《 エルサレム入京 》に臨まれた主は、13節の熱狂的歓迎振りで迎えられたが、ご自身の装い【14節a 「ろばの子」にまたがっての行進】をもって、その彼らにメッセージを発信されたところに学んだ。
ろばによったのは平和を意味する乗り物故、馬は戦いの軍馬として用いられていることから、ヨハネは主が戦士としてではなく、平和の王であることを示す為だったと、ゼカリヤ9章9、10節を引用した。その背景の《 軍馬で乗り込み、勝利を治めようとエルサレムに進軍したアレキサンドロス大王が、神の干渉によって撤退させられた出来事 》との比較で。
私たちは、このゼカリヤの預言から、エルサレム入京の際《 ろばにまたがられた主 》を紹介するおことばに注目した。
ⅰ 「義なる者」とは、神の御心に従って生きるの意で、主は、へブル5章9節 「完全な【第一ペテロ2章22節 「罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった」】者」となって、罪に屈することなく罪に「勝利を得」られたお方ということ。
ⅱ 「柔和な者」とは、主が「義なる者として、完全な者」となる為に、へブル5章8、9節 「・・・お受けになった・・・苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」とあるように、人となられたが故に受け続けなければならなかった《 サタンの誘惑 》に、その都度、人の子としての葛藤を味わいながらも、断乎として聖父のみことばを選び取るべく、謙り続けられたその姿勢。
※ 見栄えなきお姿で入京され、淡々とご自身の道を明らかにされた主を誇りとして、このお方への従順を果たしたいと!!
迎えた12月の講壇は、クリスマス礼拝に向けての《 待降節 》に入り、共に主のご降誕の意義を深く思い巡らしつつ、今朝は、24節 「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」を味わいたい。
実に、主のご降誕の意義を凝縮して語られた聖句の代表的なおことばの一つである。主がこのおことばを話されたきっかけは、20~23節 「さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた」とあり、彼らは「礼拝のため」とあることから、既にユダヤ教に改宗していただろうと考えられるが、その人々がピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだことにあった。
実際、このギリシア人が個人的に主に会ったかについては明らかにされていないが、この動きを知られた主が、23節 「すると、イエスは彼らに答えられた。『人の子が栄光を受ける時が来ました・・・』」と、ご自身の最期の時をより確かに自覚される決定的瞬間を得られたとだけ伝えている。
主の言われる「栄光を受ける時」とは、エペソ1章20、21節 「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」と、イザヤ53章11節 「激しい苦しみのあとを見て、満足する」 贖あがないが完成する時が来たとの歓喜!!
主は、黙示録5章9~14節の天の礼拝を思い描かれ、「・・・あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです」と、贖い成就後の礼拝に感極まった。
そして直ちに主は、この栄光を受ける前には、どうしても通過しなければならない《 重要なことがある 》と語り始められたのが、24~26節《 死ぬなら、実を結ぶ 》なのだ。
主はご自身を、24節 「一粒の麦は」に擬えて語られたことに注目して、Message としたい。
① 「地に落ちて」とは?
ベツレヘムの家畜小屋に産声をあげる瞬間を迎えられた聖父への従順の出来事。ピリピ2章6、7節 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くし」とある謙遜によるご降誕とそのご生涯。
② しかし、もし「死ななければ、一粒のままです」とは?
せっかくの謙卑をもってのご降誕に、聖父への従順という見事な献身があったとしても、25節a 「自分のいのちを愛する ⇒ 自己の利益をのみ求め」、人の子として、27節a’ 「『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか」を貫くなら、無結実で空しく終わることを意味している。
③ しかし、もし「死ぬなら、豊かな実を結びます」とは?
a. 「死ぬ」とは?
25節a’ 「この世で自分のいのちを憎む者」、即ち、27c、28節 「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と、個人的願いを捨てて、聖父によるご降誕の目的・人類の身代わりの死を求め、聖父への従順を喜びとされたその姿勢を意味する。
主が、27節 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか」と祈られたのは、人の子となられた主にも二通りの選択肢があったからだ。こうしたジレンマ自体、罪深いものではない。むしろ人の子としての やむなき反応。しかし主は、聖父への従順にのみ関心を抱くお方だったので、この時の「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至った」と言われた聖父と御子との関係による決意が素晴らしい!!
b. 「豊かな実を結びます」とは?
イザヤ53章11節 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う」とある《 宣教の結実 ⇒ ローマ3章22~24節 》。
※ 主の聖父への従順によって救いに与ったお互い、26節 詳訳 「誰でもわたしに仕えようと思う者は、何時もわたしに従う(主に倣う)べき」に聞きたい。主が、24節の自然界の法則をご自身にあてがい《 死による結実 》という法則に生きるべく勧められたこの招きに心してお従いしたい。
ヨハネの福音書12章20~28節
先週、いよいよ受難週初めの《 エルサレム入京 》に臨まれた主は、13節の熱狂的歓迎振りで迎えられたが、ご自身の装い【14節a 「ろばの子」にまたがっての行進】をもって、その彼らにメッセージを発信されたところに学んだ。
ろばによったのは平和を意味する乗り物故、馬は戦いの軍馬として用いられていることから、ヨハネは主が戦士としてではなく、平和の王であることを示す為だったと、ゼカリヤ9章9、10節を引用した。その背景の《 軍馬で乗り込み、勝利を治めようとエルサレムに進軍したアレキサンドロス大王が、神の干渉によって撤退させられた出来事 》との比較で。
私たちは、このゼカリヤの預言から、エルサレム入京の際《 ろばにまたがられた主 》を紹介するおことばに注目した。
ⅰ 「義なる者」とは、神の御心に従って生きるの意で、主は、へブル5章9節 「完全な【第一ペテロ2章22節 「罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった」】者」となって、罪に屈することなく罪に「勝利を得」られたお方ということ。
ⅱ 「柔和な者」とは、主が「義なる者として、完全な者」となる為に、へブル5章8、9節 「・・・お受けになった・・・苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」とあるように、人となられたが故に受け続けなければならなかった《 サタンの誘惑 》に、その都度、人の子としての葛藤を味わいながらも、断乎として聖父のみことばを選び取るべく、謙り続けられたその姿勢。
※ 見栄えなきお姿で入京され、淡々とご自身の道を明らかにされた主を誇りとして、このお方への従順を果たしたいと!!
迎えた12月の講壇は、クリスマス礼拝に向けての《 待降節 》に入り、共に主のご降誕の意義を深く思い巡らしつつ、今朝は、24節 「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」を味わいたい。
実に、主のご降誕の意義を凝縮して語られた聖句の代表的なおことばの一つである。主がこのおことばを話されたきっかけは、20~23節 「さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた」とあり、彼らは「礼拝のため」とあることから、既にユダヤ教に改宗していただろうと考えられるが、その人々がピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだことにあった。
実際、このギリシア人が個人的に主に会ったかについては明らかにされていないが、この動きを知られた主が、23節 「すると、イエスは彼らに答えられた。『人の子が栄光を受ける時が来ました・・・』」と、ご自身の最期の時をより確かに自覚される決定的瞬間を得られたとだけ伝えている。
主の言われる「栄光を受ける時」とは、エペソ1章20、21節 「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」と、イザヤ53章11節 「激しい苦しみのあとを見て、満足する」 贖あがないが完成する時が来たとの歓喜!!
主は、黙示録5章9~14節の天の礼拝を思い描かれ、「・・・あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです」と、贖い成就後の礼拝に感極まった。
そして直ちに主は、この栄光を受ける前には、どうしても通過しなければならない《 重要なことがある 》と語り始められたのが、24~26節《 死ぬなら、実を結ぶ 》なのだ。
主はご自身を、24節 「一粒の麦は」に擬えて語られたことに注目して、Message としたい。
① 「地に落ちて」とは?
ベツレヘムの家畜小屋に産声をあげる瞬間を迎えられた聖父への従順の出来事。ピリピ2章6、7節 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くし」とある謙遜によるご降誕とそのご生涯。
② しかし、もし「死ななければ、一粒のままです」とは?
せっかくの謙卑をもってのご降誕に、聖父への従順という見事な献身があったとしても、25節a 「自分のいのちを愛する ⇒ 自己の利益をのみ求め」、人の子として、27節a’ 「『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか」を貫くなら、無結実で空しく終わることを意味している。
③ しかし、もし「死ぬなら、豊かな実を結びます」とは?
a. 「死ぬ」とは?
25節a’ 「この世で自分のいのちを憎む者」、即ち、27c、28節 「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と、個人的願いを捨てて、聖父によるご降誕の目的・人類の身代わりの死を求め、聖父への従順を喜びとされたその姿勢を意味する。
主が、27節 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか」と祈られたのは、人の子となられた主にも二通りの選択肢があったからだ。こうしたジレンマ自体、罪深いものではない。むしろ人の子としての やむなき反応。しかし主は、聖父への従順にのみ関心を抱くお方だったので、この時の「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至った」と言われた聖父と御子との関係による決意が素晴らしい!!
b. 「豊かな実を結びます」とは?
イザヤ53章11節 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う」とある《 宣教の結実 ⇒ ローマ3章22~24節 》。
※ 主の聖父への従順によって救いに与ったお互い、26節 詳訳 「誰でもわたしに仕えようと思う者は、何時もわたしに従う(主に倣う)べき」に聞きたい。主が、24節の自然界の法則をご自身にあてがい《 死による結実 》という法則に生きるべく勧められたこの招きに心してお従いしたい。
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