聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 41


ヨハネの福音書12章12~19節

 先週は、弟子たちと過ごされた荒野を後にされた主が、11章55~57節《 不穏な空気の漂うエルサレム、十字架刑を待つエルサレム 》にその歩を向けられたその始め、マリアから高価な香油を注がれた出来事《 それが何と!! ユダの主への裏切りを決定的なものにした出来事 》に注目した。

ⅰ マリアの油注ぎが意味していたこととは?
 3節 「家は香油の香りで一杯になった」とは、正にマリアの行為の麗しさの象徴だが、夕食会は、主の最後を意識して、日頃からの主への感謝を表すべく設けられたもの。唯、そのマリアの油注ぎも、どれ程素晴らしいものであれ、実は、特別なことではなく、ローマ12章1節 「ですから」、第一ヨハネ3章16~19節 「ですから・・・いのちを捨てるべき」と、主から受けた贖あがないの代価に対する当然の献身。

ⅱ マリアの油注ぎを受けられた主に謙遜の輝きを見るべき。
 ユダのマリアに向けた※5節は、日頃から抱いていた主への不満【世的野望を満たさず、受難を語る】による蔑み。主は、黙示録5章6~14節 「力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方」にも拘らず、マリアの献身を弁護して高く評価し、ご自分へのユダの蔑みを咎めず、むしろ穏やかに、8節 「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます・・・」とだけ、忠告された。誰かに、いつそれをするかの行為は、いつでも出来る!! ではなく、聖父の御心に適って機会を逸することなく行うべきであると。

※ ユダは恥ずべき罪を悔いて、唯、主に憐れみを求めるべきで、主への献身は当然の礼拝と弁わきまえて、献身を新たにと!!


 今朝は、受難週初めの日曜日【棕櫚しゅろの聖日】と言われる《 主のエルサレム入京 》の記事に入る。
 主は、12節 「イエスがエルサレムに来られると聞いて」、集まって「祭りに来ていた大勢の群衆」たちと、17節 「イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆」たちによって大歓迎された。彼らは皆、13節 「なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。『ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。』」という歓迎振り。
 しかし後、これらの叫びが、十字架に付けろと言う狂わんばかりの叫びに代わるのを見る時、残念ながら決して信仰によるものではないと思われる。
 現に、この「ホサナ」とは、讃美の叫びではなく、“ どうぞ救って下さい ” の意のへブル語の命令形であると学ぶが、過越の祭りの時、人々が待ち望むのは神から遣わされたメシアであり、そのメシアが神の民族的解放を切に求める叫びであるから。
 更に、この「なつめ椰子 ⇒ 棕櫚」とは、黙示録7章9節によると、悲しみの後に訪れる安息と平和のしるしである。
 とするならば、主がイスラエルをローマの圧制から解放し、長年の虐待による悲哀を終わらせて、安息と平和、自由を与えるお方と期待しての叫びなのだ。
 この様子がどれ程、熱狂的だったかについては、19節 「それで、パリサイ人たちは互いに言った。『見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった』」との取り乱し様で明白。

 こうした熱狂的叫びで迎えられた主は、ご自身の装いをもって、彼らへのメッセージを発信されたと学びたい。
 主の装いは、14節a 「イエスはろばの子を見つけて」とあるが、他の福音書では、主が弟子たちに、ろばを連れて来るよう指示して遣わされたと記録している。
 しかしヨハネは、それらの経緯を他の記者に委ねて短縮し、結論的に唯「見つけて」とだけにして、直ちに※14節a'《 ろばに乗られた意義 》に読者を導き、「次のように書かれているとおりである。『恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」と預言と結び付けている。
 ろばは、平和を意味する乗り物として用いられているが、馬は主として戦いの場合、軍馬として用いられていることから、主はご自身を《 戦士としてではなく、平和の王として示すべく 》ゼカリヤ9章9、10節を引用された。
 ここに乗り物が何故、「雌ろばの子である、ろば」だったのかの説明がなされている。10節には、「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る」と、対比させているからだ。
 この軍馬とは、歴史的にギリシアのアレキサンドロス大王の勢力に言及されたもの。彼が軍馬にまたがり、B.C.333年にペルシャを征服以降、ペルシャの支配下にあった国々を次から次と征服し、遂にはエルサレムにも矛先を向け、軍馬を結集させてエルサレムに進軍しようとしたのだ。
 ところが、同8節 「わたしは、わたしの家のために、行き来する者の見張りとして衛所に立つ。もはや、虐げる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ」とあり、神ご自身の干渉によって、エルサレムに対する彼の野望は遂げられずに退却せざるを得なくされたというのだ。
 そして、11~17節で、彼の征服振りとは対照的な柔和さをもって、主がどのように「捕らわれ人」を救い出されるかの預言が続いている。
 こうした背景から・・・
 私たちは、このエルサレム入京の際《 ろばにまたがられた 》主をどのようなお方として見るべき? ⇒ ゼカリヤ9章9、10節から。

① 「義なる者」。

 「義」とは、神の御心に従って生きるの意味で、主は、へブル5章9節 「完全な【第一ペテロ2章22節 「罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった」】」となって罪に屈することなく罪に「勝利を得」られたお方ということ。

② 「柔和な者」。

 「柔和」とは、主が「義なる者として、完全な者」となる為に、へブル5章8、9節 「・・・お受けになった・・・苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」とあるように、人となられたが故に受け続けなければならなかった《 サタンの誘惑 》に、その都度、人の子としての葛藤を味わいながらも、断乎として聖父のみことばを選び取る姿勢のこと。

※ 見栄えなきお姿で入京され、淡々とご自身の道を明らかにされた主を誇りとして、このお方への従順を果たしたい。

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