聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 40


ヨハネの福音書11章55節~12章11節

 先週は、ラザロをよみがえらせた後、荒野に退かれた主の信仰に学び、今日からの受難週に入る出来事に備えた。
 主が荒野に退かれた切っ掛けは、ラザロのよみがえり情報の提供を受けた祭司長、パリサイ人が(47節)緊急会議を召集し、普段から教理の主張の違いによる敵対関係にあった両者【祭司系サドカイ人と律法学者パリサイ人】が、主を憎悪の余り殺害に一致団結した、と聞いたことからだった。
 主はこの動きに《 遂にわたしの時が来た 》と確信されたからだったが、その確信は《 49、50節の大祭司の言葉を、聖父のご指示によるものとされた 》主の信仰によったと学んだ。
 51節 リビングバイブル訳 「イエスが全国民の代わりに死ぬことを、ほかでもない大祭司カヤパが預言したのです。カヤパは、自分で考えたのではありません。そう言うように、聖霊に導かれたのです」と、大祭司自身、主が《 世の罪を取り除く神の子羊 》として贖あがないの死を遂げるお方だと知っていたから出た言葉ではないが、それを、主は聖父からのものと読み取られたのだ。
 使徒16章9、10節 「神が私たちを召しておられるのだと確信した」パウロに、その写しとしての信仰を見る。
 その確信を得るには、主が常に、5章19、30節 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません」と言われ、聖霊との密着した関係に身を置いておられたことに従うのみ。
 パウロの得た確信もやはり、然りだった(使徒16章6、8節)。

※ 贖いという一大事業に掛けられた主の献身に見た《 聖父との緊密 》な関係に生きる生き様を一大目標にしたい、と。


 今朝から、主がいよいよ受難週に臨まれる記事に入る。
 11章55、56節には、「ユダヤ人の祭りが近づいた」為に都に上って来た多くの人々が、「イエスを捜し・・・『どう思うか。あの方は祭りに来られないのだろうか』」と話し合っていたとあるが、一方、57節を見ると、主が、殺害計画を企む「祭司長たち、パリサイ人たち」から指名手配されている。
 この最後の時を覚悟しておられた主が、弟子たちと過ごされた【どのような交わりの時を? 】荒野を後にされ、この不穏な空気の漂うエルサレム、十字架刑の待つエルサレムに、その歩を確実に向けられた《 その皮切りに起こった、マリアが高価なナルドの香油を注いだ 》出来事に注目したい。

 この出来事の時期について、マタイとマルコでは主の捕縛二日前としている。ヨハネの示す時間こそが正確だと考えられているが、それは、マタイ、マルコは何れも、マリアの油注ぎによって、イスカリオテのユダの《 主への裏切りを決定的なもの 》にしたと伝えたいが為だったからだと。
 マリアの油注ぎ後、マタイ26章14~16節 「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。『私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。』すると、彼らは【マルコ14章11節 「それを聞いて喜び」】銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた」とあり、その記事の後に最後の晩餐の出来事が続くことから、挿入的にここに持って来ていると理解出来る。
 こうした背景を見る時、このマリアの油注ぎが如何に、闇を照らす眩まばゆいばかりの行為だったかが分かる。とは言え、マリアのこの行為を弁護された主こそ、闇を照らす眩い光を放たれたところに注目しなければならない。
 実にユダの闇は早くから《 世的な栄誉には関心のない主、むしろ死を予告 》に苛立つ 肉的野望に始まっていた。

① マリアの油注ぎが意味していたこととは?

 12章3節 「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(約328グラム)取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」こと。実に、「家は香油の香りでいっぱいになった」とは、マリアの行為の麗しさを象徴している。
 主の為に備えられたこの食事は、これまでの、少なからず、主ご自身が吐露して来られたお言葉【ルカ9章22節 「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」】を聞かせて頂いていたことから、最後を意識しての夕食会であり、日頃からの主への感謝を表そうとする多くの弟子たちによって設けられたもの。
 とりわけマリアが、主から※7節 「マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」と言われているのも、ルカ10章39節 「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた」とあるように、主の最後を察知しての行為だった。それだけに、ラザロのよみがえりに与らせて頂いたことへの感謝を是非とも、との迸ほとばしりでは!!
 但し、マリアの油注ぎがどれ程のものであれ、実は、それ自体は特別なことではなく当然ではないだろうか!!
 ローマ12章1節 「ですから」と、8章にあるキリスト者の凱旋的・霊的経験に与ったのですから、主への明け渡しの献身を当然の如く捧げるべきなのだ。第一ヨハネ3章16~19節 「ですから・・・いのちを捨てるべきです」となる。

主にこそ、眩いばかりの光を見るべきである。

 ユダからの※5節 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」は表向きマリアへの非難ではあるが、主への嫌味、蔑みであるにも拘らず、主は如何に謙遜であることか。
a. 主は、黙示録5章6~14節 「・・・子羊の前にひれ伏した。・・・ ・・・『屠ほふられた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です』・・・」。しかし、ユダの不遜な態度を取り上げず、又、主こそ「貧しい人々」の友であり、ご自身を捧げられたお方であられるのに、この点でも、ご自身への誹謗となる言葉として咎められなかった。
b. むしろ、マリアを憤慨して訴えるユダに、7節 「そのままさせておきなさい」と触れて、彼女を弁護されるのみ。
c. そして穏やかに、8節 「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます・・・」とだけ、忠告された。誰かに、いつそれをするかの行為は、いつでも出来る!! ではなく、聖父の御心に適って機会を逸することなく行うべきであると。

※ ユダは恥ずべき内的動機(6節)を悔いて、唯、主に憐れみを求めるべき。自らの頑かたくなさを貫くことの悲惨には自戒を!!

この記事へのコメント