ヨハネの福音書11章45~54節
先週は、聖父の御心を仰いで臨まれた主の行く手が阻まれた問題に注目した。
姉妹たちには、《 ラザロの死は神の子が栄光を受ける為 》のものであると伝えられていたにも拘らず、現場が悲しみに包まれていたという問題、即ち、主に※40節を言わせた《 彼女たちの不信仰 》にである。
ⅰ 主の※4節のおことばに留まっていなかった不信仰。
彼女たちはその初め、3節 「あなたが愛しておられる者が」と、主の彼への愛を信頼しての伝言だった筈。
ラザロの死を見た時に動転した為? “ 主は間に合って、ラザロを病から癒す筈 ” との独善的思い込みに占められ、主の既に語られていたおことばを締め出してしまった為なのか? 主をお迎えした時の彼女たちには、「あなたが愛しておられる者」ではなく「私の兄弟」となっている。
ⅱ 主の※39節 「その石を取りのけなさい」の指示に、「主よ、もう臭くなっています・・・」と抗議した不信仰。
マルタは、27節と告白をしたが、いざという時には、“ 死んで早、腐敗が進んでいるであろうラザロの体を今更 ” と言う。しかし主が※40節 「・・・言ったではありませんか」と咎めざるを得なくされたマルタの不信仰は、主が「最後の敵として滅ぼされる死」の克服者として、究極的勝利《 主の復活 》を啓示すべく立ち上がられた時、悲しいかな、立ちはだかったのだ。
※ その彼らが、41節a 「石を取りのけ」て不信仰の障害物を取り払った時、41b、42節、未だ見ずして聖父を信頼して《 ご自身の栄光を現された主の信仰 》に倣いたいと!!
今朝は、ラザロをよみがえらせた、54節 「そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された」主の信仰に学び、次回からの受難週に入る出来事に備えたい。
主がエフライム【エルサレムから北に20キロの地点】に退かざるを得なくされた切っ掛けは、45節 「・・・多くが、イエスを信じた」、46節 「しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた」と、ラザロのよみがえりを好意的に見なかった人々によって、パリサイ人たちの知る所となった動きに始まった。
この情報を得た議員たちは、47節a 「最高法院を召集し」て緊急会議を開くことにした。この最高法院は、サドカイ派【エルサレムの神殿を中心とする祭司家系】とパリサイ派【ユダヤ各地に散在し、その指導者は会堂や学校で教える教師】から選ばれた70人と、サドカイ派出の1人の大祭司とで71人の構成で、ユダヤ人の政治と司法の最高議会だった。
その戸惑いの様子が、47b、48節 「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう」に見られる。
主に対し《 パリサイ派は 》わざをもって神と等しい者としたことで、復活を否定する《 サドカイ派は 》ラザロのよみがえりで自分たちの教理を真っ向から覆すとして、焦りを露わに。
いつもは教理の主張の違いから敵対関係にあったが、パリサイ派は、己を神とするイエスを律法によって呪われるべきだと糾弾して怒り、サドカイ派はローマ政府の怒りを招き兼ねない反乱を警戒して恐れたことから、イエスを取り除こうとすることで一致団結し、53節 「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企たくらんだ」。そこで立ち上がったのが、大祭司!!
49、50節 「大祭司であったカヤパ【サドカイ派】が、【苛立ちを露わに】彼らに言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。』」と、普段からパリサイ人たちに抱いていた敵対心が言葉を荒あらげさせ、彼の指揮の下、急ピッチに事態が動くことに。
実に、54節 「そのために、イエスは・・・」と、これまで何度も「わたしの時はまだ来ていません」と《 聖父の主に定めておられる贖あがないの日 》を確認して来られたその《 聖父によるわたしの時が来た 》との自覚を確信されてのエフライム滞在、期間は一二か月にも及んだのでしょうか?
主をして遂に《 わたしの時が来た 》と確信された《 主の信仰 》にのみ注目して、Message としたい。
ヨハネが、51、52節 「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを預言した」と言う説明から。
主の《 大祭司カヤパの言った言葉を、聖父のご指示によるものと認められた 》信仰である。
51節 詳訳 「・・・彼がこう言ったのは自分の考えから〈自分の発意でこう言ったの〉ではなく」、リビングバイブル訳 「イエスが全国民の代わりに死ぬことを、ほかでもない大祭司カヤパが預言したのです。カヤパは、自分で考えたのではありません。そう言うように、聖霊に導かれたのです」とあるように、大祭司カヤパ自身、主が「世の罪を取り除く神の子羊。1章29節」として死のうとしていると知っていたから言ったのではない、それを主は、聖父からのものと読み取られたのだ。
大祭司カヤパは、後、初代教会が直面した迫害にも加担した人物であるが、彼がどのような人物であれ、又本人には全く主の贖いの死について知る由もないが、聖父は、人を通してもご自身の御心を明らかにされるお方であると、主は知って《 わたしの時 》として察知された。
使徒16章9、10節 「神が私たちを召しておられるのだと確信した」パウロに、その写しとしての信仰を見る。
その確信を得るには、主が常に、5章19、30節 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません」と言われ、聖霊との密着した関係に身を置いておられたことに従うのみ。
パウロの得た確信もやはり、然りだった(使徒16章6、8節)。
※ 贖いという一大事業に掛けられた主の献身に見られた《 聖父との緊密な関係 》に生きることを一大目標にしたい。
先週は、聖父の御心を仰いで臨まれた主の行く手が阻まれた問題に注目した。
姉妹たちには、《 ラザロの死は神の子が栄光を受ける為 》のものであると伝えられていたにも拘らず、現場が悲しみに包まれていたという問題、即ち、主に※40節を言わせた《 彼女たちの不信仰 》にである。
ⅰ 主の※4節のおことばに留まっていなかった不信仰。
彼女たちはその初め、3節 「あなたが愛しておられる者が」と、主の彼への愛を信頼しての伝言だった筈。
ラザロの死を見た時に動転した為? “ 主は間に合って、ラザロを病から癒す筈 ” との独善的思い込みに占められ、主の既に語られていたおことばを締め出してしまった為なのか? 主をお迎えした時の彼女たちには、「あなたが愛しておられる者」ではなく「私の兄弟」となっている。
ⅱ 主の※39節 「その石を取りのけなさい」の指示に、「主よ、もう臭くなっています・・・」と抗議した不信仰。
マルタは、27節と告白をしたが、いざという時には、“ 死んで早、腐敗が進んでいるであろうラザロの体を今更 ” と言う。しかし主が※40節 「・・・言ったではありませんか」と咎めざるを得なくされたマルタの不信仰は、主が「最後の敵として滅ぼされる死」の克服者として、究極的勝利《 主の復活 》を啓示すべく立ち上がられた時、悲しいかな、立ちはだかったのだ。
※ その彼らが、41節a 「石を取りのけ」て不信仰の障害物を取り払った時、41b、42節、未だ見ずして聖父を信頼して《 ご自身の栄光を現された主の信仰 》に倣いたいと!!
今朝は、ラザロをよみがえらせた、54節 「そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された」主の信仰に学び、次回からの受難週に入る出来事に備えたい。
主がエフライム【エルサレムから北に20キロの地点】に退かざるを得なくされた切っ掛けは、45節 「・・・多くが、イエスを信じた」、46節 「しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた」と、ラザロのよみがえりを好意的に見なかった人々によって、パリサイ人たちの知る所となった動きに始まった。
この情報を得た議員たちは、47節a 「最高法院を召集し」て緊急会議を開くことにした。この最高法院は、サドカイ派【エルサレムの神殿を中心とする祭司家系】とパリサイ派【ユダヤ各地に散在し、その指導者は会堂や学校で教える教師】から選ばれた70人と、サドカイ派出の1人の大祭司とで71人の構成で、ユダヤ人の政治と司法の最高議会だった。
その戸惑いの様子が、47b、48節 「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう」に見られる。
主に対し《 パリサイ派は 》わざをもって神と等しい者としたことで、復活を否定する《 サドカイ派は 》ラザロのよみがえりで自分たちの教理を真っ向から覆すとして、焦りを露わに。
いつもは教理の主張の違いから敵対関係にあったが、パリサイ派は、己を神とするイエスを律法によって呪われるべきだと糾弾して怒り、サドカイ派はローマ政府の怒りを招き兼ねない反乱を警戒して恐れたことから、イエスを取り除こうとすることで一致団結し、53節 「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企たくらんだ」。そこで立ち上がったのが、大祭司!!
49、50節 「大祭司であったカヤパ【サドカイ派】が、【苛立ちを露わに】彼らに言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。』」と、普段からパリサイ人たちに抱いていた敵対心が言葉を荒あらげさせ、彼の指揮の下、急ピッチに事態が動くことに。
実に、54節 「そのために、イエスは・・・」と、これまで何度も「わたしの時はまだ来ていません」と《 聖父の主に定めておられる贖あがないの日 》を確認して来られたその《 聖父によるわたしの時が来た 》との自覚を確信されてのエフライム滞在、期間は一二か月にも及んだのでしょうか?
主をして遂に《 わたしの時が来た 》と確信された《 主の信仰 》にのみ注目して、Message としたい。
ヨハネが、51、52節 「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを預言した」と言う説明から。
主の《 大祭司カヤパの言った言葉を、聖父のご指示によるものと認められた 》信仰である。
51節 詳訳 「・・・彼がこう言ったのは自分の考えから〈自分の発意でこう言ったの〉ではなく」、リビングバイブル訳 「イエスが全国民の代わりに死ぬことを、ほかでもない大祭司カヤパが預言したのです。カヤパは、自分で考えたのではありません。そう言うように、聖霊に導かれたのです」とあるように、大祭司カヤパ自身、主が「世の罪を取り除く神の子羊。1章29節」として死のうとしていると知っていたから言ったのではない、それを主は、聖父からのものと読み取られたのだ。
大祭司カヤパは、後、初代教会が直面した迫害にも加担した人物であるが、彼がどのような人物であれ、又本人には全く主の贖いの死について知る由もないが、聖父は、人を通してもご自身の御心を明らかにされるお方であると、主は知って《 わたしの時 》として察知された。
使徒16章9、10節 「神が私たちを召しておられるのだと確信した」パウロに、その写しとしての信仰を見る。
その確信を得るには、主が常に、5章19、30節 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません」と言われ、聖霊との密着した関係に身を置いておられたことに従うのみ。
パウロの得た確信もやはり、然りだった(使徒16章6、8節)。
※ 贖いという一大事業に掛けられた主の献身に見られた《 聖父との緊密な関係 》に生きることを一大目標にしたい。
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