ヨハネの福音書11章17~46節
先週は、主のご生涯のクライマックス的出来事《 パリサイ人たちをして主への憎悪を最高潮に至らせ、遂に、53節に向かわせた 》ラザロの復活の記事に学んだ。
時期的には早、55節※十字架刑の受難週に向かう頃のこと、3節※姉妹たちによる「あなたが愛しておられる者が病気です」に始まったが、直ちにではなく「二日とどまられ」て行動された主に学んだ。5、6節、「・・・愛しておられた。しかし」と、慎重を期して臨まれた主は如何なるお方かと・・・
ⅰ マルタとマリアの反応から見た主。
主が遂にその現場に赴かれた時、残念なことには、21、32 節 「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかった・・・」と、悲嘆に暮れる彼女たちに迎えられた。主の愛を信頼するとは、いつ? どの様な形で? 等の全てを委ゆだねるべきなのだが。主は彼女たちの信仰を試し育てるお方。
ⅱ 弟子たちの反応から見た主。
二日間、聖父の導きを仰がれて後、主は弟子たちに、7節 「もう一度ユダヤに行こう」と言われたが、弟子たちは、 10章39、40節の故に、8節 「先生。ついこの間・・・またそこに」と、主を気遣って言った。しかし主は、弟子たちの気持ちを知りつつも、9~16節のやり取りをもって《 主のお考えを理解させ 》遂に、出掛けられた。
主は「昼間歩けば、つまずくことはありません」と、聖父の御心の中を歩むならば、間違いなしと確信されるお方。
※ 主は聖父のご指示をのみ求めて生きられたお方。そこに倣うべく生きたパウロの信仰(ピリピ1章20、21節)に与りたいと。
今朝は、聖父の御心を仰いで現場に臨まれた主の御思いに近づかせて頂きたい。
17節 「イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた」、19節 「マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた」とあるように、実に現場は悲しみに包まれていた。しかし、主から予あらかじめ※14節 「ラザロは死にました。」と言われていた出来事だったことを見逃してはならない。
しかも、死んでラザロはよみがえり、4節 「それによって神の子が栄光を受けることになります」と宣言されての訪問だったことを。
実際、44、45節 「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた」と、主の予告は成就した。
そしてこの奇跡を契機に、47~53節に見る《 エルサレムの最高法院による反撃 》が決定的となったのだから。
主の、この反撃をもご存知での行動だったことになる。
ここで私たちは、主がそのわざを為さるのに《 障害 》を覚悟しなければならなかったことを思って、身を低くしなければならない。主のその障害を覚悟してとは、40節 「イエスは彼女に言われた。『信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。』」と主に言わせた《 彼女たちの不信仰 》をである。
主は彼女たちからの使者に、4節 「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります」と伝言を託された。その伝言には、ラザロの死が暗示されており、彼の死を見ても その死は絶望的なものではなく、「神の栄光のため」との希望を抱くようにとの激励が込められていた。
実際主が「死」の現実を目の当たりにされた時、ヨハネは32~38節で、主には稀なこと《 感情を露わにされた場面 》があったと伝えているが、33節 「霊に憤りを覚え、心を騒がせ」、35節 「涙を流された」、38節 「イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら」も現される栄光なのだ。
主は、第一コリント15章24、26節 「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます」、「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」と言われるお方だから、悲嘆に暮れている彼ら同様、悲しまれたのではない。主の涙は単なる彼らへの同情からの涙ではなく、前後言われている「憤り」、即ち、耳にされた「死」、目にされた「墓」から《 人に死をもたらした罪の現実 》に痛みを覚えられ、憤られ、人々を誘ってあらゆる悲惨さに追い込んだ「最後の敵」が突き付けた挑戦に臨まれる 心の激しさなのだ。
この挑戦に臨まれた主に立ちはだかった不信仰とは?
① 4節 「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります」に留まっていなかった事実。
彼女たちはその初め、3節 「あなたが愛しておられる者が」と、主の彼への愛を信頼しての伝言だった筈。
ラザロの死を見た時に動転した為? “ 主は間に合って、ラザロを病から癒す筈 ” との独善的思いに占められ、主の既に語られていたおことばを締め出してしまった為なのか? 主をお迎えした時の彼女たちには、「あなたが愛しておられる者」ではなく、「私の兄弟」となっている。
② 39節 「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』死んだラザロの姉妹マルタは言った。『・・・もう臭くなっています。四日になりますから』」に見る。
マルタは、27節 「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と告白したが、いざ!! の時には、“ 死んで早、腐敗が進んでいるであろうラザロの体を今更 ” と、主に抗議するとは!!
確かな所、主から※40節 「・・・言ったではありませんか」と咎めを受けなければならなくされたマルタの不信仰は、主が「最後の敵として滅ぼされる死」の克服者としての究極的勝利者の証《 主の復活 》を啓示すべく立ち上がられた時、悲しいかな、立ちはだかったのだ。
※ 41節a 「そこで、彼らは石を取りのけた」時、不信仰という障害物が取り払われ、主の《 41b、42節、未だ見ずして聖父を信頼する 》信仰で、ご自身の栄光を現された。このいざとなった時にこそ、常の信仰が試されるとの自戒を!!
先週は、主のご生涯のクライマックス的出来事《 パリサイ人たちをして主への憎悪を最高潮に至らせ、遂に、53節に向かわせた 》ラザロの復活の記事に学んだ。
時期的には早、55節※十字架刑の受難週に向かう頃のこと、3節※姉妹たちによる「あなたが愛しておられる者が病気です」に始まったが、直ちにではなく「二日とどまられ」て行動された主に学んだ。5、6節、「・・・愛しておられた。しかし」と、慎重を期して臨まれた主は如何なるお方かと・・・
ⅰ マルタとマリアの反応から見た主。
主が遂にその現場に赴かれた時、残念なことには、21、32 節 「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかった・・・」と、悲嘆に暮れる彼女たちに迎えられた。主の愛を信頼するとは、いつ? どの様な形で? 等の全てを委ゆだねるべきなのだが。主は彼女たちの信仰を試し育てるお方。
ⅱ 弟子たちの反応から見た主。
二日間、聖父の導きを仰がれて後、主は弟子たちに、7節 「もう一度ユダヤに行こう」と言われたが、弟子たちは、 10章39、40節の故に、8節 「先生。ついこの間・・・またそこに」と、主を気遣って言った。しかし主は、弟子たちの気持ちを知りつつも、9~16節のやり取りをもって《 主のお考えを理解させ 》遂に、出掛けられた。
主は「昼間歩けば、つまずくことはありません」と、聖父の御心の中を歩むならば、間違いなしと確信されるお方。
※ 主は聖父のご指示をのみ求めて生きられたお方。そこに倣うべく生きたパウロの信仰(ピリピ1章20、21節)に与りたいと。
今朝は、聖父の御心を仰いで現場に臨まれた主の御思いに近づかせて頂きたい。
17節 「イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた」、19節 「マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた」とあるように、実に現場は悲しみに包まれていた。しかし、主から予あらかじめ※14節 「ラザロは死にました。」と言われていた出来事だったことを見逃してはならない。
しかも、死んでラザロはよみがえり、4節 「それによって神の子が栄光を受けることになります」と宣言されての訪問だったことを。
実際、44、45節 「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた」と、主の予告は成就した。
そしてこの奇跡を契機に、47~53節に見る《 エルサレムの最高法院による反撃 》が決定的となったのだから。
主の、この反撃をもご存知での行動だったことになる。
ここで私たちは、主がそのわざを為さるのに《 障害 》を覚悟しなければならなかったことを思って、身を低くしなければならない。主のその障害を覚悟してとは、40節 「イエスは彼女に言われた。『信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。』」と主に言わせた《 彼女たちの不信仰 》をである。
主は彼女たちからの使者に、4節 「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります」と伝言を託された。その伝言には、ラザロの死が暗示されており、彼の死を見ても その死は絶望的なものではなく、「神の栄光のため」との希望を抱くようにとの激励が込められていた。
実際主が「死」の現実を目の当たりにされた時、ヨハネは32~38節で、主には稀なこと《 感情を露わにされた場面 》があったと伝えているが、33節 「霊に憤りを覚え、心を騒がせ」、35節 「涙を流された」、38節 「イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら」も現される栄光なのだ。
主は、第一コリント15章24、26節 「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます」、「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」と言われるお方だから、悲嘆に暮れている彼ら同様、悲しまれたのではない。主の涙は単なる彼らへの同情からの涙ではなく、前後言われている「憤り」、即ち、耳にされた「死」、目にされた「墓」から《 人に死をもたらした罪の現実 》に痛みを覚えられ、憤られ、人々を誘ってあらゆる悲惨さに追い込んだ「最後の敵」が突き付けた挑戦に臨まれる 心の激しさなのだ。
この挑戦に臨まれた主に立ちはだかった不信仰とは?
① 4節 「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります」に留まっていなかった事実。
彼女たちはその初め、3節 「あなたが愛しておられる者が」と、主の彼への愛を信頼しての伝言だった筈。
ラザロの死を見た時に動転した為? “ 主は間に合って、ラザロを病から癒す筈 ” との独善的思いに占められ、主の既に語られていたおことばを締め出してしまった為なのか? 主をお迎えした時の彼女たちには、「あなたが愛しておられる者」ではなく、「私の兄弟」となっている。
② 39節 「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』死んだラザロの姉妹マルタは言った。『・・・もう臭くなっています。四日になりますから』」に見る。
マルタは、27節 「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と告白したが、いざ!! の時には、“ 死んで早、腐敗が進んでいるであろうラザロの体を今更 ” と、主に抗議するとは!!
確かな所、主から※40節 「・・・言ったではありませんか」と咎めを受けなければならなくされたマルタの不信仰は、主が「最後の敵として滅ぼされる死」の克服者としての究極的勝利者の証《 主の復活 》を啓示すべく立ち上がられた時、悲しいかな、立ちはだかったのだ。
※ 41節a 「そこで、彼らは石を取りのけた」時、不信仰という障害物が取り払われ、主の《 41b、42節、未だ見ずして聖父を信頼する 》信仰で、ご自身の栄光を現された。このいざとなった時にこそ、常の信仰が試されるとの自戒を!!
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