聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 37


ヨハネの福音書10章40節~11章16節

 先週、IGM 創立記念日を迎えたその意義が、群れが掲げた《 聖と宣 》のスローガンに、今、群れは? 教会は? 私は? 生きているか? の再確認にあると認識して、30節 「わたしは父と一つです」と告白された主にその在り方を学んだ。

ⅰ 主は罪なきお方ではあるが、聖父と一つであり続ける為に、18節 「・・・この命令を、わたしの父から受けたのです」との自覚で生き《 従う? 従わずに自らの願いを貫くのか? 》の岐路に立つその都度、聖父への服従を選択し抜かれた。
 お互いは、絶えず聖霊の光の中を歩むことによって「聖潔」に与り、御心を知るべく聖書との密着した生活が必須。

ⅱ 36節 「父が聖なる者とし、世に遣わした者」との自覚を常に維持され、16節 「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます・・・」との宣教の重荷に生きておられたこと。
 イザヤ49章は、理想的イスラエルの人となられた神のしもべ主に注意が向けられているが、6節は《 主の究極的贖あがないのビジョン 》で「地の果てにまでわたしの救いを」と。
 主の公的生涯の3年間、ユダヤに絞っての宣教に携わりながら、弟子訓練に費やされたのは、ひとえに、弟子たちによって福音を全世界に運ぶというビジョンをもってのことだった。あくまでも主の関心は、全人類にあった!!
 もし私たちが真の弟子ならば、私たちの関心も、隣人に仕えつつ、全世界に及ぶ福音宣教にある筈。
 復活の主は、使徒1章8節のおことばを残された。

※ 群れに与えられた《 聖と宣 》の自覚を新たに!! と。


 今朝は、いよいよ主のご生涯のクライマックス的出来事となった《 ラザロのよみがえり 》の記事に注目する。
 クライマックスとなったとは、救い主の徴しるしとしての最後で最高の奇跡【主の死からの復活を予表する究極の証】となった出来事だったからであり、その結果を受けた※11章47~53節に見るエルサレム会議の動きが、これまでの執拗な試み、罠を仕掛けるような議論をもってではなく、主への憎悪を込めた最終手段としての殺害計画、※53節 「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企」む方向に向かったことにも顕著であるから。
 54節では、「そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された」とある。
 何と!! 時期的には早、55節 「さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づいた」とあり、十字架刑の受難週に向かう頃のこと。
 45節では、「・・・イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた」ことで、47、48節 「祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。『われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう』」と焦り、恐怖心に襲われていることが分かる。
 主の民衆への影響力に怯え、それ故に主を憎み、完全に取り去ってしまおうとの断固とした決意なのだ。

 ラザロ復活の出来事は、11章3節 「姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。『主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です』」に始まった。姉妹たちとは、後、十字架刑に臨まれる※2節 「主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリア」と、姉マルタであるが、弟ラザロを執り成す時、「あなたが愛しておられる者」と呼んだ信仰は、注目に値する。
 この言葉には姉妹たちの主への信頼が凝縮している。
 自分たちの愛する弟とは訴えず(又、弟を想って悲しんでいる自分たちへの主の同情を求めようとしてではなく)、純粋に、主のラザロへの愛を弟の為に信頼しての信仰。
 しかし主は、その姉妹たちに、4節 「これを聞いて、イエスは言われた。『この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります』」を与えるだけで、6節 「イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた」とある。
 ここで、「二日とどまられ」て行動された主に学びたい!!
 5、6節 「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし・・・」と、あくまでも《 全て完全な愛を動機としつつ、それ故に慎重を期して事に当たられる 》主なのだ。

① マルタとマリアの反応から:

 主が後、その現場に赴かれた時、残念なことには、肝心の姉妹たちは、主のみ思いを理解することが出来なかった。
 “ ようこそ来て下さいました ” の労いの言葉はなく、むしろ、21、32 節 「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と悲嘆に暮れる気持ちを露わにした。マルタの※22節に希望が寄せられてはいるものの、恐らく、彼女たちは間に合って来て下さるものと期待していたからだ。主の愛を信頼するとは、いつ? どの様に? どの様な形で? の全てを委ゆだねることである。主は依頼して来た彼女たちのその信仰を試され、育てるお方。

② 弟子たちの反応から:

 二日間、聖父に導きを仰がれて後、主は弟子たちに、7節 「もう一度ユダヤに行こう」と言われたが、弟子たちは、 10章39、40節で逃れたこともあり、8節 「先生。ついこの間・・・またそこに」と主への気遣いから言った。しかし主は、弟子たちの気持ちを知りつつも、9~16節のやり取りによって《 主のお考えを理解させ 》遂に、出掛けられた。
 弟子たちが抱いた危惧は当然のこと。主を殺害しようと躍起になっているパリサイ人たちの手から逃れて来たばかりだったから。しかし主は、「昼間歩けば、つまずくことはありません」と、即ち、聖父の御心の中を歩むならば、間違いなしと確信され、15節 「あなたがたのため・・・」と強調され、ひたすら魂の益の為にのみ生きられる主を見る。

※ 主は悉ことごとく、聖父のご指示をのみ求めて生きられたお方。そこに倣うべく生きたパウロの信仰に私たちも ⇒ ピリピ1章21節。

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