礼拝《 IGM 創立記念 》
ヨハネの福音書10章22~39節
今朝は、イムマヌエルの群れの創立74回目を記念して礼拝が全国諸教会で守られる朝ですが、何を覚えるべきかを熟慮しつつ、礼拝をお捧げしたい。
毎月第二聖日の午後の宣教会では、リック・ウォレン著『健康な教会へのかぎ』を学んでいるが、これまで、教会は何を目的として存在しているのか? 教会に与えられた上からの召命、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。マタイ28章19、20節」との主からの宣教大命令遂行というこのビジョン強化の為に、スローガンを端的に表現することは、賢明なことだと学んで来ている。
その折、イムマヌエルは、創設当初から今日に至るまでスローガンとして《 聖と宣の旗印のもとに 》を合言葉に立てられて来た群れだと再確認した。実に聖書全巻を通して流れている真理、穿うがったスローガンだと痛感!!
創設者に与えられたこのスローガンの《 聖 》とは、66巻全て誤りなき神のことばとの聖書信仰に立脚しており、聖書は一貫して、罪からの赦しのみならず、罪の性質からの清めによる罪からの二重の癒しを伝え、その癒しに与る者をして聖霊に満たすの意。《 宣 》とは、聖霊の満たしによって「キリストの証人」とされて宣教に携わるとの意である。
鳥が空を飛び交うには両翼をもってであるように、群れもこの世にあって健全に存在意義を全うするのは、《 聖と宣 》を両翼として生きる時にだけだと。
又、《 宣と聖 》ではなく《 聖と宣 》である点も重要。
何故なら、聖があって宣が期待出来るからだ。
ここで考えたい!! 私たちがもし真面目に、創立日を記念するならば《 その意義は、このスローガンに群れは? 教会は? 私は? 生きているか? の再確認 》にある。それは、どんなに優れたスローガンを掲げていたとしても、もし今日、このスローガンが息づいていなかったならば、意味を為さないから。
極めて現実的な言い方をするならば、一体誰が、この《 聖と宣 》に生きているか? 何人、ここに生きているか? なのだ。
私たちは、実はヨハネの連講から毎回、主の生き様にこそ《 聖と宣 》に生きるとは? と見、学んで来ているのでは?
先週は、主から目の見えなかった盲人が目を開いて頂いたことで会堂から追放された時、彼を見つけ出された主が、わたしは「羊たちの門」、「良い牧者」とご自身を現されたが、後者に焦点を絞って「良い牧者」とは? に学んだ。
ⅰ この「良い」とは、羊にこれ以上の至福はないと言わせるに十分な牧者の資質を持っているの意で、詩篇珠玉の23篇で、「主は私の羊飼い」とした羊の牧場での満ち足りた様子こそがその説明だと。その中心は、10b、11節 「羊たちのために命を捨てます」にあり、18節 「自分から」と自発的愛に。
ⅱ 但し、その死も、十字架刑の日を待たずに、ご降誕の日に始まる33年間の毎時毎瞬の日々の死を意味する。
それも絶えず主のお心には、やがて囲いの中に迎えられるべき異邦人の救いを思い描きながらだったと。
更に今朝は、30節、「わたしは父と一つです」と告白された主に《 聖と宣 》に生きる在り方を学びたい。
① 実は、この「わたしは父と一つです」とは、38節 「父がわたしにおられ、わたしも父にいる」に同じで、私たちは、主に在って与ることになった関係である。
6章56節 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります」、15章4、10節 「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」、「・・・と同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」、第一ヨハネ1章3節 「・・・私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです」、同7節 「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」。同4章16節c 「神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます」と、主の「父とは一つ」との関係が、与えられている。
主は罪なきお方ではあるが、聖父と一つであり続ける為の戦いがなかった訳ではない。18節 「・・・この命令を、わたしの父から受けたのです」と仰った聖父からのこの命令をどうするか《 従う? 従わずに自らの願いを貫くのか? 》の岐路に立つその都度、聖父への服従を選択し抜かれた。17節は《 主と父とは一つ 》服従によって維持されるの意。
私たちが、御父と御子との交わりに与って一つとなるとは、絶えず聖霊の光の中を歩むことで、聖書との密着した生活が必須。その生活によって、容赦なく私たちの心の中の闇を明らかにされる。その都度、新たな罪の自覚の下、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」となり、十字架による赦しと清めの信仰に立ち続け、聖霊に満たされること。
主の「わたしと父とは一つ」のことばに激怒したユダヤ人は、主を冒涜だとして、31節 「石打ち」で裁こうとしたが、何と主は、35節 「聖書が廃棄されることはあり得ない」と言って、殺気立つ彼らを相手に毅然と立ち向かわれた。
② 36節 「父が聖なる者とし、世に遣わした者」との自覚。16節 「また、この囲いに属さないほかの羊たちがいます・・・」との宣教の重荷に生きておられた。
イザヤ49章は、理想的イスラエルの人となられた神のしもべ主に注意が向けられているが、6節は《 主の究極的贖あがないのビジョン 》。主の公的生涯の3年間は、ユダヤに絞っての宣教に携わりながら、弟子訓練に費やされたが、それはひとえに、弟子たちによって福音を全世界に運ぶというビジョンをもってのことだった。あくまでも主の関心は、全人類にあった!! もし私たちが真の弟子ならば、私たちの関心も、隣人に仕えつつ、全世界に及ぶ福音宣教にある筈。
復活の主は、使徒1章8節のおことばを残された。
※ 群れに与えられた《 聖と宣 》の自覚を新たに!!
ヨハネの福音書10章22~39節
今朝は、イムマヌエルの群れの創立74回目を記念して礼拝が全国諸教会で守られる朝ですが、何を覚えるべきかを熟慮しつつ、礼拝をお捧げしたい。
毎月第二聖日の午後の宣教会では、リック・ウォレン著『健康な教会へのかぎ』を学んでいるが、これまで、教会は何を目的として存在しているのか? 教会に与えられた上からの召命、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。マタイ28章19、20節」との主からの宣教大命令遂行というこのビジョン強化の為に、スローガンを端的に表現することは、賢明なことだと学んで来ている。
その折、イムマヌエルは、創設当初から今日に至るまでスローガンとして《 聖と宣の旗印のもとに 》を合言葉に立てられて来た群れだと再確認した。実に聖書全巻を通して流れている真理、穿うがったスローガンだと痛感!!
創設者に与えられたこのスローガンの《 聖 》とは、66巻全て誤りなき神のことばとの聖書信仰に立脚しており、聖書は一貫して、罪からの赦しのみならず、罪の性質からの清めによる罪からの二重の癒しを伝え、その癒しに与る者をして聖霊に満たすの意。《 宣 》とは、聖霊の満たしによって「キリストの証人」とされて宣教に携わるとの意である。
鳥が空を飛び交うには両翼をもってであるように、群れもこの世にあって健全に存在意義を全うするのは、《 聖と宣 》を両翼として生きる時にだけだと。
又、《 宣と聖 》ではなく《 聖と宣 》である点も重要。
何故なら、聖があって宣が期待出来るからだ。
ここで考えたい!! 私たちがもし真面目に、創立日を記念するならば《 その意義は、このスローガンに群れは? 教会は? 私は? 生きているか? の再確認 》にある。それは、どんなに優れたスローガンを掲げていたとしても、もし今日、このスローガンが息づいていなかったならば、意味を為さないから。
極めて現実的な言い方をするならば、一体誰が、この《 聖と宣 》に生きているか? 何人、ここに生きているか? なのだ。
私たちは、実はヨハネの連講から毎回、主の生き様にこそ《 聖と宣 》に生きるとは? と見、学んで来ているのでは?
先週は、主から目の見えなかった盲人が目を開いて頂いたことで会堂から追放された時、彼を見つけ出された主が、わたしは「羊たちの門」、「良い牧者」とご自身を現されたが、後者に焦点を絞って「良い牧者」とは? に学んだ。
ⅰ この「良い」とは、羊にこれ以上の至福はないと言わせるに十分な牧者の資質を持っているの意で、詩篇珠玉の23篇で、「主は私の羊飼い」とした羊の牧場での満ち足りた様子こそがその説明だと。その中心は、10b、11節 「羊たちのために命を捨てます」にあり、18節 「自分から」と自発的愛に。
ⅱ 但し、その死も、十字架刑の日を待たずに、ご降誕の日に始まる33年間の毎時毎瞬の日々の死を意味する。
それも絶えず主のお心には、やがて囲いの中に迎えられるべき異邦人の救いを思い描きながらだったと。
更に今朝は、30節、「わたしは父と一つです」と告白された主に《 聖と宣 》に生きる在り方を学びたい。
① 実は、この「わたしは父と一つです」とは、38節 「父がわたしにおられ、わたしも父にいる」に同じで、私たちは、主に在って与ることになった関係である。
6章56節 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります」、15章4、10節 「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」、「・・・と同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」、第一ヨハネ1章3節 「・・・私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです」、同7節 「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」。同4章16節c 「神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます」と、主の「父とは一つ」との関係が、与えられている。
主は罪なきお方ではあるが、聖父と一つであり続ける為の戦いがなかった訳ではない。18節 「・・・この命令を、わたしの父から受けたのです」と仰った聖父からのこの命令をどうするか《 従う? 従わずに自らの願いを貫くのか? 》の岐路に立つその都度、聖父への服従を選択し抜かれた。17節は《 主と父とは一つ 》服従によって維持されるの意。
私たちが、御父と御子との交わりに与って一つとなるとは、絶えず聖霊の光の中を歩むことで、聖書との密着した生活が必須。その生活によって、容赦なく私たちの心の中の闇を明らかにされる。その都度、新たな罪の自覚の下、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」となり、十字架による赦しと清めの信仰に立ち続け、聖霊に満たされること。
主の「わたしと父とは一つ」のことばに激怒したユダヤ人は、主を冒涜だとして、31節 「石打ち」で裁こうとしたが、何と主は、35節 「聖書が廃棄されることはあり得ない」と言って、殺気立つ彼らを相手に毅然と立ち向かわれた。
② 36節 「父が聖なる者とし、世に遣わした者」との自覚。16節 「また、この囲いに属さないほかの羊たちがいます・・・」との宣教の重荷に生きておられた。
イザヤ49章は、理想的イスラエルの人となられた神のしもべ主に注意が向けられているが、6節は《 主の究極的贖あがないのビジョン 》。主の公的生涯の3年間は、ユダヤに絞っての宣教に携わりながら、弟子訓練に費やされたが、それはひとえに、弟子たちによって福音を全世界に運ぶというビジョンをもってのことだった。あくまでも主の関心は、全人類にあった!! もし私たちが真の弟子ならば、私たちの関心も、隣人に仕えつつ、全世界に及ぶ福音宣教にある筈。
復活の主は、使徒1章8節のおことばを残された。
※ 群れに与えられた《 聖と宣 》の自覚を新たに!!
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