ヨハネの福音書10章1~21節
先週は、主の一行が出会った盲人を巡って、弟子たちから出た※2節 「この人が盲人で生まれたのは・・・」の質問に、主が、3節 「・・・この人に神のわざが現れるため」と《 彼の目を開く前代未聞の奇跡をもって 》答えられた記事に学んだ。
ⅰ “ こうなったのは、誰が罪を犯したからですか、誰の責任ですか ” と言いたがる心を戒めるべきと。
ここには幾重もの問題がある。その根底に、彼の盲人であることがまるで悲劇・不幸であるかのような見方でしか見ていないことになるから。又、全ての現れを因果応報として見ることが出来ないから。確かに自業自得とか、蒔いたものを刈り取ると言わなければならない現れがあるが、全ての現れがそうではないからだ。
ⅱ 一見、人の目は悲劇・不幸と見做しても、「この人に神のみわざが現れるため」という、究極的祝福を見るところとなるという価値観を自らのものとすべきと。
この「神のみわざ」とは? 盲人の目を開くという肉体的癒やしにあるのではない。39節 「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」というここにある。盲人は、自らの目を開いて頂いて、38節 「彼は『主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した」。しかし、目の見えるパリサイ人たちが、40節 「私たちも盲目なのですか」と言って、彼らが盲目であることを明らかにされた。
※ 人間的な不自由さを不幸と見做す心の態度を見直し、それらによって真に目の見える人にする神のわざに与ることをもって幸いとする者でありたい、と。
今朝は、目を開かれた人が会堂から追放されたと聞かれて 主が彼を見つけ出されたことを切っ掛けに《 ご自身が何であるか 》とより明確にされたおことばに学びたい。
主は10章、7、9節 「わたしは羊たちの門です」、11、14節 「わたしは良い牧者です」と言われた。主のこの証しは、目が開かれた人を邪険にあしらい、会堂から追放したことへの過ちを正すためになされた。
何故なら彼らパリサイ人は、エルサレムの宗教・司法を取り扱う最高議会に自らの座を占める人々として公的に認められていたにも拘らず、彼らのしていることはと言えば、主が 「彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。マタイ23章3節」と忠告しておられるように、神の御心とは相容れない態度で生活しておきながら平然と、自らを正しいとし、教師だと豪語しているからだ。ご自身の使命を明確にすることで彼らを厳格に糾弾し、羊を救おうと立ち上がられているのが、この10章なのだ。
主が「わたしは羊たちの門だ」と言われたのは、2、3節に出て来る、門番が牧者のために開く「門」とは無関係。
14章6節 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と言われる意味で用いられた。即ち、主こそ《 主の聖父よと呼ぶのに同様、私たちも “ 天の父よ ” とお呼び出来るようにする唯一の手立て・方法/聖父を知るための真理/聖父との交わりに与らせる唯一のいのち 》という意味なのだと。
今朝は、「わたしは良い牧者です」を重点に学びたい。
① 「良い」とは?
牧者として最上の適任者の意味で言われた。
“ 牧者とは、こうあるべき ” と求められる全ての条件が完全に備わっていて、羊にとってこれ以上の至福はないと羊に言わせるに十分な資質を持っているの意。詩篇珠玉の『詩篇23篇』「主は私の羊飼い」とする羊の満ち足りたこの告白にこそ、「良い」の説明!! 「乏しいことがありません。・・・緑の牧場に伏させ」と羊飼いの愛に満たされている。
何と言っても、10節b 「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊か【溢れるばかり】に得るためです」との《 ご降誕の目的意識の確かさ 》と、その実現のためには、11節 「羊たちのためにいのちを捨てます」との《 代価を惜しまずに払う絶対的な愛の確信、十字架を目前にされての確固たる覚悟 》に見る厳格な契約的宣言にある。
このご決意は、あのゲツセマネの園で葛藤された主が、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。マタイ26章39節」と明け渡し、「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか」と信仰に立たれたことに証されている。
18節 「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです」に見る自発的な愛。
② この十字架による羊たちのための死は、極めて日常的な諸局面での死、毎時毎瞬の自己否定・ご自身の権利を悉ことごとく捨てる在り方をもってお世話することを意味している。
3、4節 「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き」については、詩篇23篇2~5節に見る光景で説明される。緑の牧草地をあてがい、みぎわ(水際)に伴い、霊肉の豊かな養いによってリフレッシュさせる。それは、羊の「名を呼んで」連れ出された主が羊の霊肉の現実を知って「むち【矯正】と杖【保護】」を当てて扱って下さるからだ。又、「死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません」には、「私の敵」との関係が仮にあっても、羊の安心感、そこに主の身を張っての保護が経験されている。
現に主は、ここでも、19、20節 「・・・再び分裂が生じた。・・・『彼は悪霊につかれておかしくなっている・・・』」と、敵対心を抱かれることが常である。それでも、21節 「これは悪霊につかれた人のことばではない」と言う人々が居たことは、その人への主の恵みである。
主はここに《 良い牧者と羊 》4、14、15節 「ついて行きます。彼の声を知っているからです」の信頼関係を結ばれる。
※ 主の地上での働きは、選民を先ず聖父に取り戻すことにあったが、16節 「この囲いに属さないほかの羊たちが」と、やがて救いが異邦人に及ぶ日を思い描き、今、囲いにいる羊たちに宣教を委ゆだねておられる主を覚えて 主に従いたい。
先週は、主の一行が出会った盲人を巡って、弟子たちから出た※2節 「この人が盲人で生まれたのは・・・」の質問に、主が、3節 「・・・この人に神のわざが現れるため」と《 彼の目を開く前代未聞の奇跡をもって 》答えられた記事に学んだ。
ⅰ “ こうなったのは、誰が罪を犯したからですか、誰の責任ですか ” と言いたがる心を戒めるべきと。
ここには幾重もの問題がある。その根底に、彼の盲人であることがまるで悲劇・不幸であるかのような見方でしか見ていないことになるから。又、全ての現れを因果応報として見ることが出来ないから。確かに自業自得とか、蒔いたものを刈り取ると言わなければならない現れがあるが、全ての現れがそうではないからだ。
ⅱ 一見、人の目は悲劇・不幸と見做しても、「この人に神のみわざが現れるため」という、究極的祝福を見るところとなるという価値観を自らのものとすべきと。
この「神のみわざ」とは? 盲人の目を開くという肉体的癒やしにあるのではない。39節 「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」というここにある。盲人は、自らの目を開いて頂いて、38節 「彼は『主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した」。しかし、目の見えるパリサイ人たちが、40節 「私たちも盲目なのですか」と言って、彼らが盲目であることを明らかにされた。
※ 人間的な不自由さを不幸と見做す心の態度を見直し、それらによって真に目の見える人にする神のわざに与ることをもって幸いとする者でありたい、と。
今朝は、目を開かれた人が会堂から追放されたと聞かれて 主が彼を見つけ出されたことを切っ掛けに《 ご自身が何であるか 》とより明確にされたおことばに学びたい。
主は10章、7、9節 「わたしは羊たちの門です」、11、14節 「わたしは良い牧者です」と言われた。主のこの証しは、目が開かれた人を邪険にあしらい、会堂から追放したことへの過ちを正すためになされた。
何故なら彼らパリサイ人は、エルサレムの宗教・司法を取り扱う最高議会に自らの座を占める人々として公的に認められていたにも拘らず、彼らのしていることはと言えば、主が 「彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。マタイ23章3節」と忠告しておられるように、神の御心とは相容れない態度で生活しておきながら平然と、自らを正しいとし、教師だと豪語しているからだ。ご自身の使命を明確にすることで彼らを厳格に糾弾し、羊を救おうと立ち上がられているのが、この10章なのだ。
主が「わたしは羊たちの門だ」と言われたのは、2、3節に出て来る、門番が牧者のために開く「門」とは無関係。
14章6節 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と言われる意味で用いられた。即ち、主こそ《 主の聖父よと呼ぶのに同様、私たちも “ 天の父よ ” とお呼び出来るようにする唯一の手立て・方法/聖父を知るための真理/聖父との交わりに与らせる唯一のいのち 》という意味なのだと。
今朝は、「わたしは良い牧者です」を重点に学びたい。
① 「良い」とは?
牧者として最上の適任者の意味で言われた。
“ 牧者とは、こうあるべき ” と求められる全ての条件が完全に備わっていて、羊にとってこれ以上の至福はないと羊に言わせるに十分な資質を持っているの意。詩篇珠玉の『詩篇23篇』「主は私の羊飼い」とする羊の満ち足りたこの告白にこそ、「良い」の説明!! 「乏しいことがありません。・・・緑の牧場に伏させ」と羊飼いの愛に満たされている。
何と言っても、10節b 「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊か【溢れるばかり】に得るためです」との《 ご降誕の目的意識の確かさ 》と、その実現のためには、11節 「羊たちのためにいのちを捨てます」との《 代価を惜しまずに払う絶対的な愛の確信、十字架を目前にされての確固たる覚悟 》に見る厳格な契約的宣言にある。
このご決意は、あのゲツセマネの園で葛藤された主が、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。マタイ26章39節」と明け渡し、「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか」と信仰に立たれたことに証されている。
18節 「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです」に見る自発的な愛。
② この十字架による羊たちのための死は、極めて日常的な諸局面での死、毎時毎瞬の自己否定・ご自身の権利を悉ことごとく捨てる在り方をもってお世話することを意味している。
3、4節 「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き」については、詩篇23篇2~5節に見る光景で説明される。緑の牧草地をあてがい、みぎわ(水際)に伴い、霊肉の豊かな養いによってリフレッシュさせる。それは、羊の「名を呼んで」連れ出された主が羊の霊肉の現実を知って「むち【矯正】と杖【保護】」を当てて扱って下さるからだ。又、「死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません」には、「私の敵」との関係が仮にあっても、羊の安心感、そこに主の身を張っての保護が経験されている。
現に主は、ここでも、19、20節 「・・・再び分裂が生じた。・・・『彼は悪霊につかれておかしくなっている・・・』」と、敵対心を抱かれることが常である。それでも、21節 「これは悪霊につかれた人のことばではない」と言う人々が居たことは、その人への主の恵みである。
主はここに《 良い牧者と羊 》4、14、15節 「ついて行きます。彼の声を知っているからです」の信頼関係を結ばれる。
※ 主の地上での働きは、選民を先ず聖父に取り戻すことにあったが、16節 「この囲いに属さないほかの羊たちが」と、やがて救いが異邦人に及ぶ日を思い描き、今、囲いにいる羊たちに宣教を委ゆだねておられる主を覚えて 主に従いたい。
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