聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 34


ヨハネの福音書9章1~7、35~41節

 先週は、主の権威あるおことばに悉ことごとく反発するユダヤ人が、48節 「あなたはサマリア人で悪霊につかれている」と主を誹謗し、石を手に取って主を殺害しようとしたが、その彼らを激怒させることになった※51節に学んだ。

ⅰ 「死を決して見ない」為には《 唯一つの条件 》があること。
 「わたしのことばを守るなら」で《 主とのみことばに信頼して生きる 生きた交わりの中にある 》なら、である。
 それは本来、ありえない、望み得ない法外な恵みだから!! ローマ6章23節 詳訳 「罪の払う賃金は死ですが、神の【恵み深い】無代価の賜物は、私たちの主イエス・キリストを通して来る〈との結合の中にある〉永遠のいのちであるから・・・」とあり、私たちは常にこの事実に感動を新たにすべき!!
 条件は唯、主との結合に生きる生活であり、肉の支配に身を委ゆだねることを潔くやめた生き方を継続していく生活における《 肉の性質の徹底的処理の真面目さ 》にあると。

ⅱ 「いつまでも決して死を見ることがありません」とは?
 本来、罪人への報い 「死」を、主が代わって引き受けて下さったことで決定的決別が成就 ⇒ へブル9章27、28節。
a. 「罪を負う」とは、罪の赦しと罪の性質の清めを成就。
b. 「待ち望んでいる人々の救い【完全な】のために」と。
 神の子たちを栄化に導き、神の御国に迎え入れられる。
 黙示録21章1~8節 「※4 ・・・もはや死はなく・・・以前のものが過ぎ去ったからである」とは、何という救い!!

※ へブル2章1~4節 「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合」、との警鐘を畏敬の念を持って受け止めたい、と!!


 今朝は、9章1節 「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった」ことに始まった出来事から、主の語られているところに注目したい。
 この盲人は、7節 「行って、シロアムの池で洗いなさい」と主に言われて従った時、未だかつて見たことも聞いたこともない《 目が開かれた 》という奇跡を経験した。ところが、この奇跡を目の当たりにした人々が驚きのあまり、“ 誰が、このようなことをしたのか!! ” と彼を追求し、彼の両親を追求し、果てには、納得がいかないとして、34節 「彼らは答えて言った。『おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。』そして、彼を外に追い出した」ということで片付けられた出来事だった。
 主によって癒されたこの盲人の境遇は?
 この奇跡が、13節 「人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った」ことによって、パリサイ人に知られるところとなった時のこと。
 彼らの内心が騒々しくなっていくが(もしや、それを行った人が問題のキリストではあるまいか? との恐れから)、遂に両親を呼び出して※19節 「尋ねた」と、追及が始まる。両親の※20~22節 「・・・『・・・本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。』彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。そのため・・・」の言葉から、息子に対して《 さわらぬ神に祟りなし 》という距離が感じられる。

 従って、8節、「これは座って物乞いをしていた人ではないか」とあるのも頷うなずける。家族からの支援もなく、彼の毎日の生活には 事欠いていたことが分かる。
 主が通りすがりに目にされた「生まれたときから目の見えない人」とは、このような状況下にある人だったのだ。
 主は彼が叫んだからではない。その人には主であることは分からない。その人を目に留められたのは主だった。主の目に映ったその人は、直ちに《 その状況から解放されるべき失われた人 》だった。主の関心は、その人の必要に応えようとされること以外にはなかった。
 そのような時、弟子たちが、2節 「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」と尋ねて来た為、主が、3~5節で「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です」と応えられたのも、弟子たちの目の付け所の過ちを正すだけで、主の目はひた向きに《 失われた魂である盲人の必要にのみ 》注がれていた。
 ここで、私たちは《 正される必要 》がないだろうか。
 私たちは弟子たちのようではないか!! ということである。主が目の前の盲人をご覧になった時、主の関心は、彼の霊的必要にあった。しかし弟子たちには、彼が「盲人で生まれたのは、だれが・・・」という結果の原因にしか関心がなかったから。
 3節 「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。・・・神のみわざが現れるためです』」とのおことばに学んで Message を。

①  “ こうなったのは、誰が罪を犯したからですか、誰の責任ですか ” と言いたがる心を戒めるべきこと。

 ここには幾重もの問題がある。その根底に、彼の盲人であることがまるで悲劇・不幸であるかのような見方でしか、見ていないことになるから。又、全ての現れを因果応報と見ることが出来ないから。確かに自業自得とか、蒔いたものを刈り取ると言わなければならない現れがあるが、全ての現れがそうではないからだ。

② 一見、人の目は悲劇・不幸と見做しても、「この人に神のみわざが現れるため」という、究極的祝福を見るところとなるという価値観を自らのものとすべきこと。

 この「神のみわざ」とは? 盲人の目を開くという肉体的癒やしにあるのではない。39節 「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」というここにある。盲人は、自らの目を開いて頂いて、38節 「彼は『主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した」。しかし、目の見えるパリサイ人たちが、40節 「私たちも盲目なのですか」と言って、自らの目が見えていないことが明らかにされた。

※ 人間的な不自由さを不幸と見做す心の態度を見直し、それらによって真に目の見える人にする神のわざに与ることをもって幸いとする者でありたい。

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