聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 33


ヨハネの福音書8章48~59節

 先週は、献堂二十周年を記念して、31節 「あなたがたは・・・」との問い掛けに果たして《 主の真の弟子か 》の確認をした。
 このことは、私が25年前、香川教会に着任して以来一貫して心掛けて来た教会建設の目標である《 説教の充実と午後の集会での清めの霊的経験の確立、及び弟子訓練による宣教 》に適っていることであると共に、こうした備えに与っていた20年前、《 灯された明かりを燭台の上に 》との主からのビジョンが与えられた時の挑戦が、本気に従う弟子なのか? にあったからである。主にとどまり、「本当にわたしの弟子」となる人とは?

ⅰ 37節c 「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていない【根を下ろしていない】」とは、ユダヤ人への忠告であるが、主の指摘に謙遜な心で砕かれる人、耕された心。
 「自由」と聞いただけで保身に走る彼ら。主が言われたのは※34節 「罪の奴隷」からの解放である。しかし彼らには政治的な意味合いとしてでしか捉えられなかったのは、根にある選民意識の履き違えによる驕り【 “ そんなことがあろうはずもない ” とする】の即答にある。それを直ちに癒されるべき罪性と認めて痛み、その都度、十字架による清めに与る者。

ⅱ 従って、清められるその都度、聖霊の満たしによって、いよいよ、32節 「真理を知り」 自由を経験している者。

ⅲ 39節 「アブラハムのわざを行うはずです」に従う者。
 創世記12章1~4節《 全ての民族の祝福の基 》となるべく、出て行くこと。詩篇67篇の祈りに生きる者。

※ 主の《 弟子の道 》を新たな自覚をもって踏み出しを!! と。


 今朝は、8章30節 「イエスを信じた」という多くのユダヤ人が、その後、31、32節 「・・・真理はあなたがたを自由にします」との主の権威あるおことばによって《 徹底的にその信仰を 》揺さぶられ、遂には、59節 「すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った」という醜態を暴露するに至ったやり取りから、彼らを激怒させた※51節 「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません」のおことばに学びたい。
 何と肉は!! 激しい態度に人を駆り立てることかと、痛みを感じるが、信じたというユダヤ人の信仰とは一体何なのか?
 主から※32節 「真理はあなたがたを自由に」と聞いただけで保身に走り、“ 選民の私たちに、今以て自由にされなければならない縛りなどある筈がない。れっきとしたアブラハムの子孫の私たちに何という無礼!! ” との甚だしい無知を見た。
 実にその彼らは、主が彼らの独り善がりな確信にメスを入れつつ諭されたおことば【40節 「・・・わたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした」、44節 「あなたがたは、悪魔である父から出た者・・・」】を、一向に省みようとはせずに、主を※48節 「サマリア人で悪霊につかれている」とまで言い放ち、何と、59節 「イエスに投げつけようと石を取」る始末なのだ。
 へブル人への手紙に、「罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方・・・ 12章3節」とあるが、主の穏やかさと肉に縛られている者の激しさの何と対照的なこと!!

 主を侮蔑して止まない彼らをしっかり見つめながら話された《 主からの聞き流してはならない※51節 「その人はいつまでも決して死を見ることがありません」のおことば 》に学んで Message としたい。

① その為には《 唯一つの条件 》があること。

 この節の、「わたしのことばを守るなら」も、31節 「わたしのことばにとどまるなら」に同様、それはあくまでも《 主とのみことばに信頼して生きる 生きた交わりの中にある 》なら、である。それは本来、ありえない、望み得ない法外な恵みだから!! ローマ6章22、23節 詳訳 「しかし、今や、罪から自由にされて神の奴隷になったからには、あなたがたにとって聖化というのが今の報いであり、その究極は永遠のいのちなのです。何故なら、罪の払う賃金は死ですが、神の【恵み深い】無代価の賜物は、私たちの主イエス・キリストを通して来る〈との結合の中にある〉永遠のいのちであるから・・・」とあり、私たちは常にこの事実に感動を新たにすべき!!
 ここには気ままな信仰生活への警鐘がある。
 条件は唯、主との結合に生きる生活であり、罪からの自由、即ち、肉の支配に身を委ゆだねることを潔くやめた生き方を継続していく生活である。
 ローマ6章5節 「キリストの死と同じようになって」、6節 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」との《 肉の性質の徹底的処理の真面目さ 》。

② 「いつまでも決して死を見ることがありません」とは?

 本来、罪人に対する決定的報いだった「死」との決定的決別が意味されている。それは、主が罪人に代わって「死」を引き受けて下さったからだ【第一ペテロ2章21~25節】「24 キリストは自ら 十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」。
 この「死」との決別とは?
 へブル9章27、28節 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます」とある。即ち・・・
a. 「罪を負う」とは、罪の赦しと罪の性質の清めを成就。
 過去の罪責は赦され【罪に対する審判としての死から免まぬかれ】、義とされて神の子となり、新生させて神の性質に与る者とされ、罪は犯すことから救われ、犯さなくされる。
b. 「待ち望んでいる人々の救い【完全な】のために」とは、神の子たちを栄化に導き、神の御国に迎え入れられる。
 黙示録21章1~8節 「※4 ・・・もはや死はなく・・・以前のものが過ぎ去ったからである」とは、何という救い!!

※ へブル2章1~4節 「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは・・・」との警鐘を畏敬の念を持って受け止めたい。

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