礼拝《 献堂二十周年・設立六十周年記念 》
ヨハネの福音書8章31~47節
先週は、12節 「わたしは世の光」と言われる主を非難するパリサイ人たちに、その結果は、21、24節 「罪の中で死ぬ」、と警告された主のおことばに注目した。
ⅰ 「自分の罪の中に死ぬ」とは、犯した罪のみならず、罪を犯させる罪深い性質の報いとして死を受ける意であると。
ローマ6章23節 「罪の報酬は死です」とあり、その死も、エペソ2章1~3節 「自分の背きと罪の中に死んでいた者」とあるが、やがて死ぬではなく、今既に死んでおり、その延長線上にある霊的いのちの死に至るの意であること。
ⅱ 主は、「自分の罪の中に死ぬ」ことを回避させようと、懇切丁寧に《 救いの道 》を提供された。
12節 「わたしに従う者」、24節 「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ・・・」と《 主を信じる道 》を。
この「わたしはある」とは? 神がモーセを出エジプトの指導者として召された時、出エジプト記3章13、14節で神が新たな顕現をもってご自身の名を明かされた神の名「主」であり、「エジプトの苦役、重い労働」即ち、罪の奴隷状態から救い出す贖あがない主であり、その契約は不変であると。
※ 主が語られて後、30節 「多くの者がイエスを信じた」とあるが、果たして、彼らの「信じた」という信仰は?
主はこの主を信じたと言う多くの人々の信仰を知る為、31節 「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」と指導されたが、彼らは何とも反撃するお粗末さ!! 今一度、自らの信仰の如何を確認しながら、持つべき信仰について次回学びたいと。
今朝は、献堂二十周年を記念して、前回からのおことばを受けて、一つのことだけを確認し聖餐式に臨みたい。
それは、31節 「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」と主が、「ご自分を信じたユダヤ人に言われた」ことばであるが、私たちは主を信じる者ではあるが、果たして《 主の真の弟子か 》の確認である。
私が香川教会に着任した1995年から25年目に入った今日まで、一貫して心掛けて来た教会建設の目標は【既に互いの共通理解と信じているが】、礼拝説教の充実と午後の集会での《 清めの霊的経験の確立と弟子訓練による宣教 》にある。
その為に、聖別会での清めの良書及び、宣教会での弟子訓練の為、既に十数冊を用いての学びを進めて来ている。
20年前、45坪に建つ教会は、四方の隣家とは至近距離で取り囲まれ、駐車場にも困難を来す状況下に置かれた為《 宣教拠点移転問題が浮上 》した。
その時、マタイ5章14~16節 「・・・明かりをともして升ますの下に置いたりはしません。燭台の上に置きます」と示される主のビジョンに、群れは本気に従う弟子なのか? の挑戦を受けた。ルカ14章25~33節 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と。この世での「塔を建てようとするとき」の実現可能とする条件は《 十分な費用 》であり、「ほかの王と戦いを交えようと出て行くとき」の勝ち目の条件は《 軍事力 》にあるが、主の働きの勝利の条件は、費用? 動員人数? 等の如何にはなく、唯、33節《 自分の財産すべてを捨てる、即ち己を明け渡す 》弟子であるか? にあった。
その試験に始まった《 宣教拠点移転で生じた負債 》は、一昨年の初夏で完済し、この恵まれた環境での教会生活が許されている今、あの場所では今お迎えしている皆さんとの教会生活は到底考えられない状況だったことを思いながら、感無量。このような経緯を熟慮しつつ、献堂二十周年を迎えるに当たって再考すべきは、何と言っても今一度、私以外の誰かではなく其々の私が、主からのあなたは「本当にわたしの弟子」ですか? の問い掛けに、どう応えるかにあると弁わきまえたい。
主の言われる※8章31節 「本当にわたしの弟子です」とは、「わたしのことばにとどまるなら」を満たす者のことである。
この「とどまる」というおことばは、15章1~10節に12回出ているが、7節を見ると「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」とあり《 主との生命的結合の内に、途切れることのない交わりを持っている 》ことを意味する。
信じたというユダヤ人たちは、その限りではなかった。
主は、彼らを直ちに試すことになるおことば※31b、32節 「・・・なら・・・あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」を投げ掛けられた時、何と彼らは、思い掛けない扱いに立腹激怒し、自らの霊的貧しさを暴露することに!!
“ イエスは一体、自分たちを何だと思っているのか!! ” の勢いで主に食って掛かったのだ。主の「自由にします」が気に入らなかった。何故なら、まるで自分たちを束縛された奴隷であるかのように扱い、見做したと思ったからだ ⇒ 33節。
主は、37節a【彼らの血統を知っている】としつつ、34~47節で彼らを正された。その要点は、37節b 「・・・殺そうとしています」、39節c 「アブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはず」、40節 「ところが今・・・」、41節a 「あなたがたの父【44節 ⇒ 悪魔】がすることを行っているのです」と。
親の七光に安住し、自分の実質に盲目。彼らは歴史的に、エジプトでの430年間の奴隷時代、士師時代の通算111年間の近隣諸国への隷属、バビロンで70年間 捕囚に服し、現に今もローマ隷属に服しているのに蓋をしている。
主にとどまり、「本当にわたしの弟子」となる人とは?
① 37節c 「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていない【根を下ろしていない】」とは、ユダヤ人への忠告であるが、主の指摘に謙遜な心で砕かれる人、耕された心。
「自由」と聞いただけで保身に走る彼ら。主が言われたのは※34節 「罪の奴隷」からの解放である。しかし彼らには政治的な意味としてでしか捉えられなかったのは、根にある選民意識の履き違えによる驕り【 “ そんなことがあろうはずもない ” とする】の即答にある。それを直ちに癒されるべき罪性と認めて痛み、その都度、十字架による清めに与る者。
② 従って、清められるその都度、聖霊の満たしによって、いよいよ、32節 「真理を知り」 自由を経験している者。
③ 39節 「アブラハムのわざを行うはずです」に従う者。
創世記12章1~4節《 全ての民族の祝福の基 》となるべく、出て行くこと。詩篇67篇の祈りに生きる者。
※ 主の《 弟子の道 》を新たな自覚をもって踏み出しを!!
ヨハネの福音書8章31~47節
先週は、12節 「わたしは世の光」と言われる主を非難するパリサイ人たちに、その結果は、21、24節 「罪の中で死ぬ」、と警告された主のおことばに注目した。
ⅰ 「自分の罪の中に死ぬ」とは、犯した罪のみならず、罪を犯させる罪深い性質の報いとして死を受ける意であると。
ローマ6章23節 「罪の報酬は死です」とあり、その死も、エペソ2章1~3節 「自分の背きと罪の中に死んでいた者」とあるが、やがて死ぬではなく、今既に死んでおり、その延長線上にある霊的いのちの死に至るの意であること。
ⅱ 主は、「自分の罪の中に死ぬ」ことを回避させようと、懇切丁寧に《 救いの道 》を提供された。
12節 「わたしに従う者」、24節 「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ・・・」と《 主を信じる道 》を。
この「わたしはある」とは? 神がモーセを出エジプトの指導者として召された時、出エジプト記3章13、14節で神が新たな顕現をもってご自身の名を明かされた神の名「主」であり、「エジプトの苦役、重い労働」即ち、罪の奴隷状態から救い出す贖あがない主であり、その契約は不変であると。
※ 主が語られて後、30節 「多くの者がイエスを信じた」とあるが、果たして、彼らの「信じた」という信仰は?
主はこの主を信じたと言う多くの人々の信仰を知る為、31節 「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」と指導されたが、彼らは何とも反撃するお粗末さ!! 今一度、自らの信仰の如何を確認しながら、持つべき信仰について次回学びたいと。
今朝は、献堂二十周年を記念して、前回からのおことばを受けて、一つのことだけを確認し聖餐式に臨みたい。
それは、31節 「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」と主が、「ご自分を信じたユダヤ人に言われた」ことばであるが、私たちは主を信じる者ではあるが、果たして《 主の真の弟子か 》の確認である。
私が香川教会に着任した1995年から25年目に入った今日まで、一貫して心掛けて来た教会建設の目標は【既に互いの共通理解と信じているが】、礼拝説教の充実と午後の集会での《 清めの霊的経験の確立と弟子訓練による宣教 》にある。
その為に、聖別会での清めの良書及び、宣教会での弟子訓練の為、既に十数冊を用いての学びを進めて来ている。
20年前、45坪に建つ教会は、四方の隣家とは至近距離で取り囲まれ、駐車場にも困難を来す状況下に置かれた為《 宣教拠点移転問題が浮上 》した。
その時、マタイ5章14~16節 「・・・明かりをともして升ますの下に置いたりはしません。燭台の上に置きます」と示される主のビジョンに、群れは本気に従う弟子なのか? の挑戦を受けた。ルカ14章25~33節 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と。この世での「塔を建てようとするとき」の実現可能とする条件は《 十分な費用 》であり、「ほかの王と戦いを交えようと出て行くとき」の勝ち目の条件は《 軍事力 》にあるが、主の働きの勝利の条件は、費用? 動員人数? 等の如何にはなく、唯、33節《 自分の財産すべてを捨てる、即ち己を明け渡す 》弟子であるか? にあった。
その試験に始まった《 宣教拠点移転で生じた負債 》は、一昨年の初夏で完済し、この恵まれた環境での教会生活が許されている今、あの場所では今お迎えしている皆さんとの教会生活は到底考えられない状況だったことを思いながら、感無量。このような経緯を熟慮しつつ、献堂二十周年を迎えるに当たって再考すべきは、何と言っても今一度、私以外の誰かではなく其々の私が、主からのあなたは「本当にわたしの弟子」ですか? の問い掛けに、どう応えるかにあると弁わきまえたい。
主の言われる※8章31節 「本当にわたしの弟子です」とは、「わたしのことばにとどまるなら」を満たす者のことである。
この「とどまる」というおことばは、15章1~10節に12回出ているが、7節を見ると「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」とあり《 主との生命的結合の内に、途切れることのない交わりを持っている 》ことを意味する。
信じたというユダヤ人たちは、その限りではなかった。
主は、彼らを直ちに試すことになるおことば※31b、32節 「・・・なら・・・あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」を投げ掛けられた時、何と彼らは、思い掛けない扱いに立腹激怒し、自らの霊的貧しさを暴露することに!!
“ イエスは一体、自分たちを何だと思っているのか!! ” の勢いで主に食って掛かったのだ。主の「自由にします」が気に入らなかった。何故なら、まるで自分たちを束縛された奴隷であるかのように扱い、見做したと思ったからだ ⇒ 33節。
主は、37節a【彼らの血統を知っている】としつつ、34~47節で彼らを正された。その要点は、37節b 「・・・殺そうとしています」、39節c 「アブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはず」、40節 「ところが今・・・」、41節a 「あなたがたの父【44節 ⇒ 悪魔】がすることを行っているのです」と。
親の七光に安住し、自分の実質に盲目。彼らは歴史的に、エジプトでの430年間の奴隷時代、士師時代の通算111年間の近隣諸国への隷属、バビロンで70年間 捕囚に服し、現に今もローマ隷属に服しているのに蓋をしている。
主にとどまり、「本当にわたしの弟子」となる人とは?
① 37節c 「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていない【根を下ろしていない】」とは、ユダヤ人への忠告であるが、主の指摘に謙遜な心で砕かれる人、耕された心。
「自由」と聞いただけで保身に走る彼ら。主が言われたのは※34節 「罪の奴隷」からの解放である。しかし彼らには政治的な意味としてでしか捉えられなかったのは、根にある選民意識の履き違えによる驕り【 “ そんなことがあろうはずもない ” とする】の即答にある。それを直ちに癒されるべき罪性と認めて痛み、その都度、十字架による清めに与る者。
② 従って、清められるその都度、聖霊の満たしによって、いよいよ、32節 「真理を知り」 自由を経験している者。
③ 39節 「アブラハムのわざを行うはずです」に従う者。
創世記12章1~4節《 全ての民族の祝福の基 》となるべく、出て行くこと。詩篇67篇の祈りに生きる者。
※ 主の《 弟子の道 》を新たな自覚をもって踏み出しを!!
この記事へのコメント