聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 31


ヨハネの福音書8章21~30節

 先週は、主が姦淫の女への指導後、再び神殿で※12節 「わたしは世の光」とパリサイ人に明言された場面に注目した。
 ところが彼らは、13節で義憤を露わに、その証しは独善的で客観性に欠き、真実ではないという言い分で非難した。
 しかし主は、17節で《 二人の証人をもって認める 》としている彼らの言い分を満たすべく、18節 「わたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます」と、ご自身の証しの信憑性を示し 彼らに大胆に向き合われた。

ⅰ 「世の光」であるとは?
 第一コリント4章5節 「主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごと【秘密の意図、動機と目的】も明らかにされます」と、有形無形の罪の現実を暴き、罪ありと認めさせる。姦淫の女を裁くパリサイ人、女も然り。

ⅱ 「世の光」である主に「従う者」には、約束がある。
 「決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」との約束を。闇・無知のままではなく、啓示の光によって真理を知り、光の中に住む神との親しい交わりの生活を。赦しによって神の子として始まる生活の全貌を言う。

ⅲ 「世の光」である主に「従う者」に伴う責任。
 マタイ5章14~16節 「あなたがたは世の光です」に生き、「あなたがたの良い行いを」と求められ、その「行い」とは同3~12節の霊的経験をもっての生活に他ならない。

※ 主の「わたしは世の光」への反撃は、自らの内に闇を認めつつも、主に従う者となって「いのちの光を持」とうと考えない頑なさ!! 闇からいのちに移す主の恵みに与る謙りをと!!


 今朝は、主の※12節 「わたしは世の光です」と明言された証言を受け入れないパリサイ人たちに、主を信じない結果がどうなのか? 警告されたおことばに学びたい。21節 「自分の罪の中で死にます」、24節 「・・・自分の罪の中で死ぬことになる」とある。

① 「自分の罪の中に死ぬ」とは?

 詳訳 「自分の罪の呪いの下で死ぬ」とある。自分の犯した罪のみならず、それらの罪を犯させる罪深い性質への報いとしての裁きを受ける。
 ローマ1章28~32節 「・・・神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。彼らは・・・まみれています。・・・そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら・・・」、6章23節 「罪の報酬は死です」と。
 但しエペソ2章1~3節では、「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者」と表現されているように、やがて死ぬの意ではなく、今既に死んでおり、遂にはその延長線上にある霊的いのちの死に至らせるの意。
 実にパリサイ人たちの罪とは、極めて外見上美しく見える偽善で、主は※マタイ23章13節以下 「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない」とある《 如何にも死 》である故。
 しかし主の糾弾は、同37節 「エルサレム、エルサレム。・・・わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった」と号泣されつつなのだ。

② 「自分の罪の中に死ぬ」ことのないようにと、彼らに懇切丁寧にことばを重ねられた《 救いの道 》とは?

 12節では、「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」とあったが、ここでは更に明確!! 24節 「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです」と言われた《 主を主として信じる道 》である。
 この「わたしはある」とは?
 出エジプト3章13、14節で 神がモーセを出エジプトの指導者として召された時、神が新たな顕現をもってご自身の名を明かされた《 神の名「主」である 》。同6章1~8節を詳しく見ると、「※2 わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった」、「※5、6 今わたしは・・・思い起こした。それゆえ、・・・言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖あがなう・・・』」とあり、リビングバイブル訳では単刀直入に「神の子、救い主」とあり、「エジプトの苦役、重い労働」 即ち、罪の奴隷状態から救い出す贖い主であるの意。
 その上で主は、28節 詳訳 「あなたがたが人の子を十字架に上げてしまうその時、わたしが〈あなたがたの求めている〉その者【わたしはある・救い主】であること、又わたしが自分からは〈自分の思うままに、自分自身の権威によっては〉何事もせず、わたしの父がわたしに教示されたことをその通りに語っていることに気づく【知る、悟る】」と言われた。
 マタイ27章45~54節は、主が十字架刑に処せられてから三時間が経過した時からの様子であるが、十字架を取り囲む人々からの悪口雑言、嘲笑が飛び交う内に、「闇が全地をおお」い始め、午後三時に及んだ時には周囲は聖なる恐怖に包まれることに。その時、54節 「この方は本当に神の子であった」と言わざるを得なくされたのだ。
 但し、主の十字架刑後、「あなたがたは知るようになる」というのは、主の復活後の聖霊降臨から始まる《 弟子たちによる宣教 》を待ってであるが、依然として頑なな人々がパリサイ人であると、主は警告されたのだ!!

※ 主が語られて後、30節 「多くの者がイエスを信じた」とあるが、果たして、彼らの「信じた」という信仰は?
 31節以降、主はこの主を信じたと言う多くの人々の信仰を知る為、「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」と指導されたが、彼らから返って来た言葉を見る限り、その信仰は内的に扱われてはいない姿勢によって退けられることに。今一度、自らの信仰の如何を確認しながら、持つべき信仰について次回学びたい。

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