聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 30


ヨハネの福音書8章12~20節

 先週は、祭りの後、主が教えておられた宮に、姦淫の現場で捕らえたという女性を連れ来て “ あなたはどうするのか? ” と迫る律法学者とパリサイ人と向き合われた場面に注目した。
 彼らの意図は、6節 “ 赦せ? 殺せ? 何れの指示であっても ” 主を公の場で断罪出来るように仕組んだ悪意によるもの!!
 もし主が赦せ!! と判決を下せば石打ちを命じるモーセの律法を侮辱する者、もし殺せ!! との判決を下せば日頃から伝える【取税人、遊女を救う】説教とは矛盾していると非難し、主から群衆をもぎ取ろうとの戦略。ところが窮地に追い込まれたのは主ではなく、7節 「罪のない者が」と言われた彼らだ。

ⅰ 主は人の良心に訴えて、どう向き合うかに関心を抱くお方。
 9節 詳訳 「彼らはイエスのことばに耳を傾け、それから、良心を責められて、老人から始めて最後の一人までひとり一人出て行き始めた」とある。姦淫の女に対しても然り。彼女には逃げ出す選択肢もあった。主は身をかがめて地面に文字を書いておられ、彼女を訴える人々は去って行くのだから。しかし逃げずにその場に居続けた。主のおことばが彼女の良心にも訴え、彼女を屈辱の場に留まらせた。

ⅱ もし良心が刺され、主の聖前に留まるならば、留まったその者を救われるお方。
 良心が刺されて咎めを感じながらも、悔いずに放置する者を悲しむのが主。留まる者に主は、10節 「女の人よ」と声を掛けて、ご自身に免じて罪の赦しと今後の為の指導を。「罪のない」、唯一の主が代わって命を【テトス2章14節】。

※ 主の「だれでも渇いているなら」との招きに従いたいと。


 今朝は、主が姦淫の女を指導されて後、再び、20節 「宮で教えていたとき、献金箱の近くで」、12節 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」と明言された、パリサイ人との会話に注目したい。
 主のこのおことばは、既に、ヨハネの冒頭、1章4、5節、3章19~21節で証しされて来たことであり、ご自身が唯一の救い主であるとの紛れもない念を押されての宣言である。
 ところが聞いた彼らの反応は、13節 「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません」と、彼らが最も聞きたくないことを又しても聞かされたとする義憤が露わだった。
 即ち彼らは、律法を持ち出して主を咎め、“ その証しは独善的で客観性に欠き、真実ではない ” という言い分で追及した。
 しかし主がその律法を知らない筈もないこと。17節 「あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています」と仰って、その律法に基づいて裁かれても何ら問題がないと確言された。即ち、18節 「わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます」と。既に、バプテスマのヨハネが、1章29~34節 「※33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』」がその事実を証言している。

 主はこの確信の下、主に抗議するパリサイ人に、14節 「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません」と、ご自身の証しの信憑性について《 彼らがそれを受け入れようが受け入れまいが 》明言されたのだ。
 彼らが頑として受け入れ難いとした主の※12節 「わたしは世の光です」に学んで Message としたい。

① 「世の光」であるとは?

 十分、姦淫の女を扱われた出来事との関連で考えられる。1章9節 「すべての人を照らすそのまことの光」とあるが、闇の中に光が姿を現すと、秘密・内密に隠されていたものが明るみにされる。見えなかったものとは有形無形においてある。第一コリント4章5節 「主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごと【秘密の意図、動機と目的】も明らかにされます」と。
 しかも「まこと【混じりけのない、完全な、不変】の光」である限り、見誤らずに暴く。主の前には誤魔化しがきかず、事実を完璧に明るみにされる。
 内面的には前回学んだように、敬虔ぶって町を闊歩するパリサイ人たちでさえ、「罪のない者が、まず」と言われた時、心が刺されたように、罪ありと認めさせる。
 姦淫の女も又 心刺され、自らの罪を罪と認めた。

② 「世の光」である主に「従う者」には、約束がある。

 従うとは、光である主の前に自らの闇の何なるかを認め、「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われた主こそその資格をお持ちで、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい」と言われ、そのお方を罪人が受けるべき裁きを肩代わりする救い主と信じること。
 主はその者に、「決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」との約束を与えられる。闇〈無知のまま〉ではなく、啓示の光によって真理を知り、光の中を歩んでおられる神との親しい交わりの生活に導かれると。
 赦しによって、神の子として始まる生活の全貌を言う。

③ 「世の光」である主に「従う者」に伴う責任。

 マタイ5章14~16節 「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように・・・」と、いわゆる恵みの賜物の独り占めはあり得ない。「良い行いを」と言われている「あなたがたは」とは、同3~12節の霊的経験をもっての生活に他ならない。

※ 主が「わたしは世の光」と言われて反撃するのは、自らの「闇」の事実を認めながらも、主に「従う者」となることによって「いのちの光を持」とうとは考えない頑なさにある。闇からいのちに移す主の法外な恵みに感謝したい。

この記事へのコメント