聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 29


ヨハネの福音書7章53節~8章11節

 先週は、三大祭最後の祭り、仮庵の祭りの最終日に立ち上がられて、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と叫ばれた主への反応【40~52節】を見ながら、覚悟なしには語られなかったであろうおことばに学んだ。
 群衆たちには※40節で「預言者」、41節a 「キリストだ」と好意を抱く者がいたが、41 b、42節では疑念を抱かれ、43節で分裂が巻き起こる。44節では議会に加担しての敵意が激しさを増していくことに。議会ではイエスを捕らえようと計画するが、ニコデモの賢い抗議【51節】によって再検討されることになる!!

ⅰ 誰が、主の招きに応じるのか?
a. 「渇いている」者 ⇒ 肉体的渇きは、肉体が水分の必要性を感じる時に起こるが、霊的渇きも同様、魂に癒やしの必要性を感じる時に起こる。その必要性は、マタイ5章6節 詳訳 「義【神の聖前での正しい身分に】渇く」ことであり、3、4、5節《 自らの霊的実情を段階的に知る上での渇き 》に与る者。
b. 「わたしを信じる者」 ⇒ 神から離れた自らの惨めさを罪と認めて渇く者を、神が《 赦しと清め 》を与えて義とする為に十字架で代わって裁かれた主を信じる者が、である。

ⅱ 主のこの招きに応じた者に約束されている恵みは?
 39節 「信じる者が受けることになる御霊」による新しい霊的経験《 未だかつて経験したことのない生活 》に始まる恵みで、38節の経験を。「心の奥底から」とは、ローマ5章20節であり、心に巣食っている肉の性質・腐敗性の自覚が増すに比例して、深みにまで届く聖霊の満たしの溢れるさま。

※ 渇いて信じ、聖霊の漲みなぎりを自らの経験とすべきと!!


 今朝は、祭りの後、主が※8章2節 「朝早く・・・再び宮に入られ」て、集まって来た人々に教え始めておられた時、そこに3節 「姦淫の場で捕らえられた女を連れて」、5節 「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか」と、やって来た律法学者とパリサイ人と向き合われた場面に注目したい。
 彼らの意図は、6節 「イエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった」とあるように殺意が明白で、“ 赦せか? 殺せか? 何れの指示であっても ” 主を公の場で断罪出来るように仕組まれた悪意によるもの!!
 祭りの間、殺害を試みながらも思うようには捗はかどらない現状に激怒した彼らは、群衆たちを味方につけて、主を思い通りにあしらおうとの策略を練ってやって来たのだ。
 もし主が赦せ!! と判決を下すならば、石打ち刑を命じるモーセの律法を侮辱する者として糾弾し断罪を。
 しかし、もし殺せ!! との判決を下すならば、日頃から伝える【取税人、遊女を救う】説教とは矛盾しているではないかと非難し、主から群衆をもぎ取ろうという戦略なのだ。
 彼らは間違いなく、主を告発の為に罠に掛けて成功すると考えたが、事態の行方は? 6節b 「だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた」とある。彼らは、ここに来て益々主の取っておられる仕草に苛立ちを露わにし、7節 「彼らが問い続ける【しつこく質問を続ける】ので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。』」と!!

 8節 「そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた」のだ!!
 律法学者とパリサイ人たちは番狂わせに度肝を抜かれることになったのだ。主は彼らが期待したようにはジレンマに陥ることなく、むしろジレンマに陥ったのは罠を仕掛けた彼らだった。彼らの偽善!! まるで、エルサレムの少しの悪弊も見逃さず一掃するかの如き振る舞いが暴かれることに。
 主を殺害しようと主を身動きの取れないジレンマに追い込む筈だったが、実は、主に近づいた彼らが主によって全て見透かされ、ピンチに追い込まれることに!!
 主の「・・・罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」のおことばを前にした彼らは、何と!! 9節 「それを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された」というのだ。
 執拗に問い続けて止まなかったあの彼らが、主にまともには顔を向けられずに、静かに立ち去らずには居られなくされたのだから。
 ここで、7節 「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われた主に近づきたい。

① 主は、相手が誰であるのか? 何をする人であるのか? 又その相手が何を言う人であるのか? という表面的なところ、言動そのものにではなく、その人の魂、その人の良心に訴えて、その良心にどう正直に向き合うか? にのみ関心を抱かれるお方。

 9節 詳訳 「彼らはイエスのことばに耳を傾け、それから、良心を責められて、老人から始めて最後の一人までひとり一人出て行き始めた」とある。もし彼らの良心に咎めが生じなかったならば、誰かが彼女に石を投げ付ける可能性もあった中でのご指示ではあるが、主は確信を持って彼らに触れた。福音の証人の責任はここにあり、議論ではない。
 姦淫の女に対しても然り。姦淫の現場で捕らえられた身の彼女は、逃れられるものなら逃げたいとどんなに願っていたことか!! 彼女には逃げ出す選択肢もあった。主は身をかがめて、地面に文字を書いておられ、彼女を訴える人々は去って行くのだから。しかし逃げずにその場に居続けた。主のおことばは、彼女の良心にも訴えたからであり、そこに彼女を留まらせたのだ。
 ペンテコステの説教が、聞く者の心を刺して立ち止まらせ、「兄弟たち、私たちはどうしたら・・・」と叫ばせたように、主は今も聖霊によってその働きをなさるお方との信頼を!!

② もし良心が刺され、主の聖前に留まるならば、留まったその者に救いを施されるお方。

 良心が刺されて咎めを感じつつ、主の聖前を去る人々のいることは主の悲しみ!! 富める若き司においても然り。しかし主は、10節 「女の人よ」と声を掛けられ、ご自身に免じて罪の赦しと今後の為、指導された。「罪のない」、唯一の主が代わって命を捧げられた故に【テトス2章14節】。

※ 主の「だれでも渇いているなら」との招きに従いたい。

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