聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 28


ヨハネの福音書7章37~36節

 先週は、エルサレムで持ち切りになっていた話題が主をどうするかにあると察知しておられたにも拘らず、10節 「表立ってではなく、いわば内密に・・・」にではあるが、都に上られた主、遂にご自身を隠されずに公にされた主に注目した。

ⅰ 14節 「宮に上って教え始められ」ることによって。
 案の定人々から※15節 「この人は学んだこともないのに、どうして・・・」と、感嘆? 蔑視? の的となる中、自分たちを差し置いてと憤るであろう律法学者たちに引け目を感じることなく、淡々と受難の中を突き進まれるのを見た。
 その鍵は、【16節】聖父に命じられたことを悉ことごとく語っているとの自覚、【18節】聖父の栄誉を求めるという在り方、28節 詳訳 「わたしは自分の権威によって〈自分が思うままに、自己任命によって〉来たのではない」との自覚故にである。

ⅱ 聞く者たちに “ 自らを顧みるべき ” と迫ることによって。
 17節 “ もしあなたがたがわたしの語っていることが神から出たものとして分からないならば、あなたがたは「神のみこころを行おうと」しないからだ ” と、彼らの独善的信仰に触れて、あなたがたは※18節a 「自分の栄誉を求め」る者だと彼らの高慢さを指摘された。
 19節c で彼らにある殺意を図星で指し、23、24節 「・・・あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい」、33、34節ではご自身の出所を又しても明確にすることによって彼らを苛立たせたが、結果を恐れず、彼らの内面を直截に扱われた。

※ 神の御心の中を歩む主の内的力を互いのものにと!!


 今朝は、37節 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた」という主の招きのおことばに注目したい。
 主が立ち上がられた「祭りの終わりの大いなる日」とは、2節 「仮庵の祭り」の最終日であるばかりでなく、毎年行われる三大祭の最後の祭りの最後日という意味でもあることから重要な日であり、ここで主は大声で叫ばれたのだ。
 その招きは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」だったが、そのおことばがエルサレム中の人々に与えることになった反応を見るならば、相当の覚悟なしには語り得なかったことだったと分かる。
 反応は40~52節。
 群衆たち:
40節 「この方は、確かにあの預言者だ ⇒『私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。申命記18章15、18節』」と予告されていた預言者と見做し、41節a 「この方はキリストだ」と好意を抱く者がいたが、41 b、42節 「キリストはガリラヤから出るだろうか。・・・」と疑念を抱かれることになり、43節 「イエスのことで群衆の間に分裂が生じた」と。このような分裂が、様々な議論を巻き起こす中、議会に加担する人々によって、44節 「イエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった」と、30節で同様だったこともあり、彼らの敵意は激しさを増していくことになる。
 祭司長たちとパリサイ人:32節 「イエスを捕らえようと」遣わしていた下役からの報告で怒り心頭、45~52節!!
 指導者たちが、現場から帰って来た下役に、※45節 「なぜあの人を連れて来なかったのか」と言った時、彼らが答えた※46節 「これまで、あの人のように話した人はいませんでした」に激怒する。下役たちの心が、主の招きのことばに感動した様子が窺うかがえるからだ。47~49節には、指導者たちがこの手の施しようのない有様に動揺し ざわつく様子が見える。
 こうした議会の様子【議会で内密に協議された主への陰謀】は、ここにその名を見る議員の一人※50節 「ニコデモ」の実に賢い抗議【51節 「・・・その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか」】によって再検討されることになる。
 ある夜、主を訪ねて来たニコデモ。主との面談【3章】によって主を信じ、弟子となった証をここに発見出来ることは試みの中で信仰を告白する者にとっての激励である!!

 エルサレム中にこのような衝撃を与えることになった招き、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」について考えて、message としたい。
 主の存在はいつも、ルカ2章34、35節 「この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています・・・」とある様に、主のおことばは、聞く者を二分にする。
 主を信じて、38節 「聖書が言っているとおり・・・」の豊かな霊的経験に与るのか、主をいつまでも拒んで、自らの肉の頑なさによって滅びを刈り取るのか。

① 誰が、主の招きに応じるのか?

a. 「渇いている」者。
 肉体的渇きは、肉体が水分の必要性を感じる時に起こる。霊的渇きも同様で、魂に癒しの必要性を感じる時に起こる。
 その必要性とは、マタイ5章6節 詳訳 「義【神の聖前での正しい身分に】渇く」ことであり、3、4、5節にある《 自らの霊的実情を段階的に知る上での渇き 》に与る者が、である。
b. 「わたしを信じる者」。
 神から離れた自らの惨めな霊的状態を罪と認めて渇く者を、神が聖前に《 赦しと清め 》を与えて義とする為に、十字架で代わって裁かれた主を信じる者が、である。第二コリント5章21節。

② 主のこの招きに応じた者に約束されている恵みは?

 39節 「信じる者が受けることになる御霊」による新しい霊的経験で、主を信じる時、内住のお方となって下さる聖霊との交わりによって《 未だかつて経験したことのない生活 》に始まる恵みである。その交わりも、内住の聖霊に主導権を明け渡す時に、38節 「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」との経験を、である。
 この「心の奥底」とは、ローマ5章20節 「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」が示唆している。即ち、心に巣食っている肉の性質・腐敗性の自覚が増せば増す程、その深みにまで届く聖霊の満たしの溢れるさま。

※ 渇いて信じ、聖霊の漲みなぎりを自らの経験とすべき!!

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