聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 27


ヨハネの福音書7章14~36節

 先週、主は「天から下って来たパン」と明かされて以降、ユダヤ人の殺意を察知して「ユダヤを巡」らなかったが、《 最後のエルサレム訪問を決意 》された主の御思いに注目した。
 エルサレムは、ユダヤ人指導者が、11節 「イエスを捜し」、見つけ次第 殺害しようと手ぐすねを引いて待ち構えており、又、指導者たちにその殺気を感じて恐れている群衆たちは、「イエスについて公然と語る」ことが出来ず、唯、12節 「小声で」 ひそひそ話で、主が来られるのか来られないのか? 話題で持ち切りだったからである。
 注目すべきことは、主が、3節 「わたしはこの祭りに上って行きません」と言われたにも拘らず、10節 「・・・後で・・・内密に上って行かれた」《 主のお心 》である。

ⅰ 表面的には、二枚舌に見えるが、断じて偽りなき主。
 テトス1章2節 詳訳 「偽ることのできない、常に真実であられる神」だから。厳密に見ると、7章8節 「・・・わたしはこの祭りに【詳訳:今のところ】上って行きません」とある。

ⅱ 3、4節《 主に求めた兄弟たちの意図を拒否された 》主。
 兄弟たちが毒舌をもってエルサレム行きを勧めた動機は、主に名声を勝ち取らせることにあり、名声を得ることには無頓着な主に苛立つのみだったが、主は※18節のお方。

ⅲ 6、8節 「わたしの時は・・・」と、ひたすら聖父の御心のご指示をのみ求めて行動される主。
 カナの婚礼時に同様。人が言うからではなく、聖父の御心をのみ求め、そこに生きることを喜びとするお方だから。

※ 御心に生きるべく慎重に聖父を求めた主に倣いたいと!!


 今朝は、10節 「表立ってではなく、いわば内密に上って行かれ」てから、14節 「祭りもすでに半ばになったころ」、宮に上られた主に注目したい。
 実際、エルサレム中、主が現れたならばどうするのか? という話題で持ち切りだったにも拘らず、指導者たちの殺気立った空気はただならぬ気配を醸し出しているにも拘らず、表に出られた主にである。
 主のその言動によって人々にもたらされた影響、反応を見る時、如何に、主の身には危険極まりない事態を招き兼ねないことだったかが分かるが、その立ち上がられた主にである。
 案の定、エルサレムは騒然となっていく。
 15節 「ユダヤ人たちは驚いて言った。『この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか』」と、敵対する者たちに驚異を与えた。20節 「群衆は答えた。『あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか』」と言わせた。25~27節 「エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。『この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼ら(指導者)はこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。※27節 リビングバイブル訳〈だけどさ、この人がキリスト様のわけはないよ。どこの生まれか、身元が知れてるんだから。キリスト様は、どこからともなく、突然、現われなさるはずだからね〉』」という騒々しさ。
 30~32節 「イエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者・・・」はなく、指導者を困惑させた。

こうした反応を熟知された上で、主がなさったことは?

① 14節 「宮に上って教え始められた」。

 宮で教えていたのは、マタイ23章2、3節 「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています・・・」と言われる教師たちであるが、主は当然のようにして彼らの位置にご自身を置かれた。聞いている人々からは様々な反応が出る中、主ご自身では少しも物怖じせず大胆に、権威を持って立たれた。人々から※15節 「この人は学んだこともないのに、どうして・・・」と感嘆の的? 蔑視の的? となったが、決して律法学者たちに引け目を感じる素振りなど全くない。
 《 主が淡々と受難の中を突き進まれるのは・・・
 16節 「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです」と、聖父に命じられたことを悉ことごとく語っているに過ぎないとの自覚にある。同時に、18節 「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません」という在り方にある。これらの自覚こそ力であり、この自覚の不確かさには力の発動はない!!
 28節 リビングバイブル訳 「皆さん。確かに、わたしの生まれも、育ちもはっきりしています。しかしわたしは、あなたがたの全く知らない方の代理なのです。その方は真実です」。詳訳 「あなたがたはわたしを知っているのか。わたしがどこから来たか知っているのか。わたしは自分の権威によって〈自分が思うままに、自己任命によって〉来たのではない。わたしを遣わされた方は真実である」と。

② “ わたしを問題にせず、自らを顧みるべき ” と迫られた。

 17節 「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります」と。
 “ もしあなたがたがわたしの語っていることが神から出たものとして分からないならば、あなたがたは「神のみこころを行おうと」しないからだ ” と、彼らの独善的信仰に触れられ、18節a 「自分から語る人は自分の栄誉を求めます」と言われたのは、彼らへの指摘である。
 主はこの「仮庵の祭り」に上られる前、兄弟たちに、7節 「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです」と言われたように、憎まれることを知った上で真理を示された。
 己を捨てた生き方には常に伴う現象なのだ。
 19節c 「あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか」、23、24節 「・・・あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい」、33、34節 「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません」と、彼らに問題意識を与えるべく 容赦なく単刀直入に迫られるお方。

※ 神の御心の中を歩む生き方における力を互いのものに!!

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