聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 26


ヨハネの福音書7章1~13節

 先週は、弟子達の※60、61節 「これはひどい話だ・・・」を切っ掛けに、主を信じる《 弟子達を扱われた 》場面に注目した。
 この呟つぶやいた弟子たちとは、67節で主が、「あなたがたも・・・」と尋ねられた「十二」弟子たちとは区別される人々で、既に信じ、弟子として従う態度を取りながらも、主のおことばを、先ず自分の目に取り付けているフィルター(生来の肉的価値観)を通して見聞きし、判断し、頭脳で納得出来るものだけを取り入れ、納得し難いことには文句を言い、主を退ける。
 主が尋ねられた※67節 「あなたがたも・・・」に十二弟子は何と答えたのかを見て、主の期待される信仰を考えた。

ⅰ 68節 詳訳 「主よ、私たちはあなたを離れて誰のところに行きましょう。永遠のいのちのことばはあなたが持っておられます」との帰属意識の明確な告白。

ⅱ 69節a 詳訳 「あなたがキリストであり、生ける神のみ子であると信ずる(信頼する)ことが出来たのです」との確固たる信頼関係が築かれたとの告白。
 この「信じ」とは《 信じた、信じ続ける 》との告白。

ⅲ 69節a’ 詳訳 「更にそれを確かに知るようになりました」との経験的に紛れもない実体験として知ったとの告白。
 主を実際的に知る、いつ如何なる時も場合にも《 主を現実的に生けるお方として知るのは 》「信じる」ことによる!!
 いつでも、目に見える現れ如何によって揺れるならば、その限りではないこと。11章40節 「信じるなら・・・見る」。

※ 私たちは主を信じる者? 信じて、主を実体験する者? 厳密な吟味をもって主にペテロのように告白を、と!!


 今朝は、主の三度目となるエルサレム訪問に注目したい。時はあたかも、この訪問から半年後には、受難週を迎えることになるのだが。
 一回目のエルサレム訪問は、2章13節~4章3節 「過越すぎこしの祭り」。二回目のエルサレム訪問は、5章1~47節 「ユダヤ人の祭り ⇒ 仮庵かりいおの祭り」。因みに、6章4節 「過越の祭り」には、エルサレムに上らずガリラヤに滞在。
 7章1節を見ると、ご自身が「天から下って来たパンです」と明かされて以降、「ガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかった」とあることから、主のこの三度目の訪問には慎重を期して臨んでおられることが分かる。
 特に、3~8節に見る主の肉の兄弟たちとのやり取りに顕著。
 この仮庵の祭りはユダヤ人の三大祭の一つ【3月の過越祭、5月の五旬節 ⇒ 初穂が捧げられてから50日目の刈り入れの祭り 「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。第一コリント15章20節」】で、刈り入れの終わりを告げるこの年最後の祭り。7月15~22日の8日間行われた。
 37節 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上が・・・」って、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と招きのおことばを叫ばれたのが、この最終日だった。この祭りは出エジプト後のイスラエルの民が放浪した荒野で宿とした仮小屋を記念して、いつまでも主がしてくださった恵みを覚えて忘れない、ここに由来している。

 問題のエルサレムの様子※11~13節に目を向けたい。
 13節を見ると、「ユダヤ人たち」とは、群衆たちと区別される人々、1節で「イエスを殺そうとしていた」指導者たちで、11節 「イエスを捜していた」、即ち、見付け次第殺害しようと手ぐすねを引いて待ち構えている人々。
 群衆たちはと言えば、指導者たちにその殺気を感じて恐れ、「イエスについて公然と語る者はだれもいなかった」が、12節では「小声で」 ひそひそ話で、彼らの間では、主が来られるのか来られないのか? 話題で持ち切りだった。
 主への評価は、「ある人たちは『良い人だ』と言い、別の人たちは『違う。群衆を惑わしているのだ』と言っていた」と二分していた。
 これが、主の最後の訪問となるエルサレムの状況なのだ。
 主はこの様子をご存知の上での決断。
 どれだけ、ただならぬ状況下に身を置くことになるのか、この訪問が何処に向かっているのか、十分知り抜いて下された決断が、このエルサレム行きだった。
 主が、1節 「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」という気配を感じて、あえて「ユダヤを巡ろうとはされなかった」とあるのは、主の聖父の時を意識されながらの日々を思う時、頷ける。続く※2節 詳訳 「ところが、ユダヤ人の仮庵の祭りが近づいた」とあることから、いつまでもユダヤを巡らずにいる訳にはいかない状況に追い込まれたのだ。
 この祭りに導きを覚え始められたのだ。
 3節 「ここを去ってユダヤに行きなさい」と言う兄弟たちに、最終的には、8節 「『・・・あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。』こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた」《 主のお心に 》近づきたい。
 「行きません」と言って、後に「行かれた」主の御心に!!

① 表面的には、二枚舌に見えるが、断じて偽りなき主。

 テトス1章2節 詳訳 「偽ることのできない、常に真実であられる神」とあるからだ。厳密に見ると、7章8節 「・・・わたしはこの祭りに【詳訳:今のところ】上って行きません」とある。

② 3、4節《 主に求めた兄弟たちの意図を拒否された 》主。

 兄弟たちの、毒舌をもってエルサレム行きを勧めた動機は、あくまでも名声を勝ち取らせることにあり、主が名声を得ることに無頓着であることへの苛立ちが露骨で、この機会を勝ち取って名を上げなさいと。皮肉交じりに、そうしないから、「弟子たち」は離れたのだからと。しかし主は、主が※18節でご自身の姿勢を示しておられる通りなのだ。

③ 6、8節 「わたしの時は・・・」と、ひたすら聖父の御心のご指示をのみ求めて行動される主。

 カナの婚礼時に同様。人が言うからではなく、聖父の御心をのみ求め、そこに生きることを喜びとするお方だから。

※ 御心に生きるべく慎重に聖父を求めた主に倣いたい!!

この記事へのコメント