ヨハネの福音書6章60~71節
先週は、主が、59節 「会堂」で《 五千人 給食の奇跡 》を話され、41節 「わたしは天から下って来たパンです」と証しされた時、41節 「小声で文句を言」ったユダヤ人の《 二つの疑問に対する主のおことばに 》注目した。
ⅰ 42節の《 「あれは・・・」と主の出生について 》。
彼らはいつも、主の力あるわざ、知恵のことばに驚嘆し、主の偉大さを認めざるを得なくされ 喜びながらも、出生が余りにも平凡だからというので躓つまずくのみ。
45節で主は、彼ら自ら《 正しく聖書を読んでいると自負するならば 》当然、イザヤ書にもあるように “ 父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来 ” る筈だと明言された。謙虚に受け入れるだけで良かったが、頑かたくななまま・・・。
ⅱ 52節《 「どうやって」食べる? という方法について 》。
主は、こう議論する彼らには※53~58節とのみ言われ、主の《 肉を食べ、血を飲む者に及ぶ結果を話されて 》象徴的な言い方のままにされた。そしてその結果は、54節、56節《 主との交わりを持つ 》と!! この恵みの経験は、食べ、飲むことによらない限り、人の内に主が形造られる奇跡は起こり得ないと。実に 主からの応答は、十字架刑を前に、マタイ26章26~28節 「取って食べなさい。これはわたしのからだです。・・・この杯から飲みなさい。これは・・・罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です・・・」と。即ち、十字架による赦しと清めを感謝して受けることを意味する。
※ 主は、求める者か? そうではないのかを見て扱われるお方と覚えて、より謙虚に、主に聞く者でありたいと。
今朝は、弟子たちの※60、61節 「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」の呟つぶやきを切っ掛けに、主を信じていると公言している《 弟子たちを扱われた 》場面に注目を。
この呟いた弟子たちとは、67節で主が、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と尋ねられた「十二」弟子たちとは区別される人々。2章23~25節 「・・・多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった・・・」人々で、かなりの数に及んでいたことが分かる。
ところがこうした反応が生じるその都度、主が注意しておられたことは、人々が信じたとは言え、65節 「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言われたことである。聖父による厳密な精査があってのことで、あなたがたの信じたという姿勢を手放しで喜んでいる訳ではないと釘を刺しておられる点である。
既に学んだように、主が、「わたしはいのちのパンです」と言えば、42節 「あれは、ヨセフの子ではないか」と疑念を抱き、51節 「だれでも・・・食べるなら」と言えば、52節 「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と激論を交わす人々の様子を見ながら、遂に60節では、「これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。『これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。』」と、これ以上我慢も限界だと憤慨する始末。いわゆる、既に信じ、弟子として従っている態度を取りながらも、人間的な視点ででしか物事が見られない人々なのだ。
果たして、この様な人々が弟子として、主に留まり得るのだろうか? その結末は、66節 詳訳 「それ以降、弟子たちのうちの多くの者が身を引いて〈もとの生き方に戻って〉、最早主と行動を共にしなかった」とあり、極めて疑問である。
ここで、緊張感をもって、67節 詳訳 「イエスは十二人に言われた。『あなたがたも去って行きたいのか〈わたしから離れることを望むのか〉』」、十二弟子には、彼ら同様であって欲しくないと尋ねられたお心を考える必要がある。
その為には、ここでしっかり知っておきたい。主を「信じる」とは、どのような信仰のことを言うのか? を!!
主を信じると口で言ったとしても、離れて行った弟子たちのように、主の語られるおことばを、先ず自分の目に取り付けているフィルター(生来の肉的価値観)を通して見聞きし、判断し、頭脳で納得出来るものだけを取り入れ、理解出来そうにもないことには、文句を言い、語る主を退ける。
主の話された深い意図を知ろうともせず、極めて表面的、目に見える部分で判断し、あれやこれや生来の性質に基づいて無意味な 不毛な議論を重ねる傾向性には警戒しなければならない。霊的営みに深みがなく、石地、岩地だからだ。
主の奇跡に喜び、主を信じたとしつつも、いざ、理解し難いと思った時には、難しいと感じた自分の無知を問題視せず、謙って主にその真意を尋ねようともせず、語られる主を「あれは・・・」と蔑さげすみ、当てには出来ないと見切りをつけ、遂には、自分の肉のまま、無知な生き方に戻って行くのが関の山。
主の十二弟子への67節の問い掛けに戻りたい!!
主は※70、71節で、ユダは彼らどころではない。最後的には主を捨てて悪魔に自らを明け渡し、主を裏切る結末を選択すると予告される。しかし他の十二弟子は、何と答えるのか?
① 68節 詳訳 「主よ、私たちはあなたを離れて誰のところに行きましょう。永遠のいのちのことばはあなたが持っておられます」との帰属意識の明確な告白。
弟子を代表してのペテロの告白は不動で、主への確固たる意志表示。仮に彼ら自身、未だ聖霊による歩みを知らずとも、主なくして存在し得ないことだけは知ったとの告白。
② 69節a 詳訳 「あなたがキリストであり、生ける神のみ子であると信ずる(信頼する)ことが出来たのです」との確固たる信頼関係が築かれたとの告白。
この「信じ」とは《 信じた、信じ続ける 》との告白。
③ 69節a' 詳訳 「更にそれを確かに知るようになりました」との経験的に紛れもない実体験として知ったとの告白。
ここには重要な原則がある。主を実際的に知る、いつ如何なる時も場合にも《 主を現実的に生けるお方として知ることが出来るのは 》「信じる」姿勢があってのこと!! いつでも、目に見える現れ如何によって揺れるならば、その限りではないこと。しかし、11章40節 「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」とは現実。
※ 私たちは主を信じる者? 信じて、主を実体験する者? 厳密な吟味をもってペテロのように主に告白を!!
先週は、主が、59節 「会堂」で《 五千人 給食の奇跡 》を話され、41節 「わたしは天から下って来たパンです」と証しされた時、41節 「小声で文句を言」ったユダヤ人の《 二つの疑問に対する主のおことばに 》注目した。
ⅰ 42節の《 「あれは・・・」と主の出生について 》。
彼らはいつも、主の力あるわざ、知恵のことばに驚嘆し、主の偉大さを認めざるを得なくされ 喜びながらも、出生が余りにも平凡だからというので躓つまずくのみ。
45節で主は、彼ら自ら《 正しく聖書を読んでいると自負するならば 》当然、イザヤ書にもあるように “ 父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来 ” る筈だと明言された。謙虚に受け入れるだけで良かったが、頑かたくななまま・・・。
ⅱ 52節《 「どうやって」食べる? という方法について 》。
主は、こう議論する彼らには※53~58節とのみ言われ、主の《 肉を食べ、血を飲む者に及ぶ結果を話されて 》象徴的な言い方のままにされた。そしてその結果は、54節、56節《 主との交わりを持つ 》と!! この恵みの経験は、食べ、飲むことによらない限り、人の内に主が形造られる奇跡は起こり得ないと。実に 主からの応答は、十字架刑を前に、マタイ26章26~28節 「取って食べなさい。これはわたしのからだです。・・・この杯から飲みなさい。これは・・・罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です・・・」と。即ち、十字架による赦しと清めを感謝して受けることを意味する。
※ 主は、求める者か? そうではないのかを見て扱われるお方と覚えて、より謙虚に、主に聞く者でありたいと。
今朝は、弟子たちの※60、61節 「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」の呟つぶやきを切っ掛けに、主を信じていると公言している《 弟子たちを扱われた 》場面に注目を。
この呟いた弟子たちとは、67節で主が、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と尋ねられた「十二」弟子たちとは区別される人々。2章23~25節 「・・・多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった・・・」人々で、かなりの数に及んでいたことが分かる。
ところがこうした反応が生じるその都度、主が注意しておられたことは、人々が信じたとは言え、65節 「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言われたことである。聖父による厳密な精査があってのことで、あなたがたの信じたという姿勢を手放しで喜んでいる訳ではないと釘を刺しておられる点である。
既に学んだように、主が、「わたしはいのちのパンです」と言えば、42節 「あれは、ヨセフの子ではないか」と疑念を抱き、51節 「だれでも・・・食べるなら」と言えば、52節 「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と激論を交わす人々の様子を見ながら、遂に60節では、「これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。『これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。』」と、これ以上我慢も限界だと憤慨する始末。いわゆる、既に信じ、弟子として従っている態度を取りながらも、人間的な視点ででしか物事が見られない人々なのだ。
果たして、この様な人々が弟子として、主に留まり得るのだろうか? その結末は、66節 詳訳 「それ以降、弟子たちのうちの多くの者が身を引いて〈もとの生き方に戻って〉、最早主と行動を共にしなかった」とあり、極めて疑問である。
ここで、緊張感をもって、67節 詳訳 「イエスは十二人に言われた。『あなたがたも去って行きたいのか〈わたしから離れることを望むのか〉』」、十二弟子には、彼ら同様であって欲しくないと尋ねられたお心を考える必要がある。
その為には、ここでしっかり知っておきたい。主を「信じる」とは、どのような信仰のことを言うのか? を!!
主を信じると口で言ったとしても、離れて行った弟子たちのように、主の語られるおことばを、先ず自分の目に取り付けているフィルター(生来の肉的価値観)を通して見聞きし、判断し、頭脳で納得出来るものだけを取り入れ、理解出来そうにもないことには、文句を言い、語る主を退ける。
主の話された深い意図を知ろうともせず、極めて表面的、目に見える部分で判断し、あれやこれや生来の性質に基づいて無意味な 不毛な議論を重ねる傾向性には警戒しなければならない。霊的営みに深みがなく、石地、岩地だからだ。
主の奇跡に喜び、主を信じたとしつつも、いざ、理解し難いと思った時には、難しいと感じた自分の無知を問題視せず、謙って主にその真意を尋ねようともせず、語られる主を「あれは・・・」と蔑さげすみ、当てには出来ないと見切りをつけ、遂には、自分の肉のまま、無知な生き方に戻って行くのが関の山。
主の十二弟子への67節の問い掛けに戻りたい!!
主は※70、71節で、ユダは彼らどころではない。最後的には主を捨てて悪魔に自らを明け渡し、主を裏切る結末を選択すると予告される。しかし他の十二弟子は、何と答えるのか?
① 68節 詳訳 「主よ、私たちはあなたを離れて誰のところに行きましょう。永遠のいのちのことばはあなたが持っておられます」との帰属意識の明確な告白。
弟子を代表してのペテロの告白は不動で、主への確固たる意志表示。仮に彼ら自身、未だ聖霊による歩みを知らずとも、主なくして存在し得ないことだけは知ったとの告白。
② 69節a 詳訳 「あなたがキリストであり、生ける神のみ子であると信ずる(信頼する)ことが出来たのです」との確固たる信頼関係が築かれたとの告白。
この「信じ」とは《 信じた、信じ続ける 》との告白。
③ 69節a' 詳訳 「更にそれを確かに知るようになりました」との経験的に紛れもない実体験として知ったとの告白。
ここには重要な原則がある。主を実際的に知る、いつ如何なる時も場合にも《 主を現実的に生けるお方として知ることが出来るのは 》「信じる」姿勢があってのこと!! いつでも、目に見える現れ如何によって揺れるならば、その限りではないこと。しかし、11章40節 「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」とは現実。
※ 私たちは主を信じる者? 信じて、主を実体験する者? 厳密な吟味をもってペテロのように主に告白を!!
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