聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 24


ヨハネの福音書6章41~59節

 先週は、主の水上歩行の翌日、《 五千人 給食の奇跡後の主 》を追って来た人々【群衆たち】を扱われた場面に注目した。
 この群衆たちとは、主が予定を変更までして憐れまれた人々であったが、ここでは主がその彼らを厳格に扱われたことから《 愛の本質とは何か? 》を考えさせられた。主は、群衆の何を扱われたか?

ⅰ 26節《 主を求める動機 》を!!
 主に何を求めて、「先生、いつ・・・」とやって来るのか? と、彼らの主を求める動機の問題にメスを入れられた。彼らは図星を指されたのだ。主を、救い主としての「しるし」を行われたお方、罪から救うお方としではなく、今日のパン、即ち地上的安定の為にのみ主を求めた動機をである。

ⅱ 29節《 わざに頼ろうとして、信仰によらない肉 》を!!
 彼らに、27節で「・・・働きなさい」と言われたが、何か努力をするようにと言われたのではない。これは、彼らの理解が神からいつも何か【義? 恵み? ご好意】を得ようとする時、内的在り方よりも外的在り方を重視し、“ これだけしている、こんなことはしていない、だから私は、正しい。義と認められ、いのちに与れる ” とする、その考えの誤りに気付かせようと敢えて言われたおことば。
 案の定、28節 「神のわざを行うためには、何をすべき」と言って来たが、主は、29節 「信じること」だと言われた。
 しかし彼らは、パンを求めるだけで、主を救い主として信じない指摘に白しらを切ろうと尋ねる頑なさ〈36節〉。

※ 不正直な群衆を厳格に扱って愛された主に信頼したいと。


 今朝は、主が、パンの奇跡で熱狂的になって追い掛けて来た群衆とは別に、59節 「イエスがカぺナウムで教えられたとき、会堂で話されたこと」とあるように、五千人の給食の奇跡を会堂で聞いたユダヤ人を扱われた場面に注目したい。
 会堂で彼らが主から、五千人 給食の奇跡を行われた目的、即ち、41節 「わたしは天から下って来たパンです」、48節 「わたしはいのちのパンです」、51節 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら・・・」と言うのを聞いて主に躓つまずき、41節 「小声で文句を言い始めた」からである。
 主に文句を言って反発したユダヤ人が抱いた《 二つの疑問に対する主のおことばに 》注目して、message としたい。

① 42節 「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」と《 主の出生について 》。

 これは言うまでもなく、主を唯、ヨセフの子としてでしか見ておらず、その素性は大工の子として育てられた息子であって、特別な家柄ではないと見做したからだ。彼らはいつも同様の反応。マルコ6章1~3節 「・・・驚いて言った。『この人は、こういうことをどこから得たのだろう。・・・いったい何なのだろう。この人は大工ではないか。・・・』」と、主の力あるわざ、知恵のことばに驚嘆し、主の偉大さを認めざるを得なくされて喜びながらも、唯、躓くのみ。
 主の誕生について、イザヤの預言を見ておきたい。
 イザヤ11章1~5節 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ・・・」と。大木は罪の為に根元に斧が当てられて切り倒されたが、その切り口の根株から新芽が生えた。即ち、罪によって裁かれた罪人の世界に主は、エッサイを父とするダビデの家系に生まれ育ったと。
 主の成長過程における人々からの扱いは、53章1~3節 「・・・ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように・・・」と侮られ、主に寄せられるべき相応しい礼拝も、好意的な探求心をもって教えを乞われることもなく、唯、人々は反発し、議論しては躓き、遂には殺害へと発展。

 主の指導は、43節 「自分たちの間で小声で文句を言う【互いにわたしを非難する】のはやめなさい」だった。
 主は、45節 「預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます」と、彼らがもし、自らで《 正しく聖書を読んでいると自負するならば 》当然、“ 主を恐れ知って、わたしのもとに ” 来る筈だと明言された。
 彼らは、主の
※48~51節 「わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」と言われた宣言と招きを、謙虚に受け入れるだけで良かった。が、頑かたくななまま・・・。

② 52節 「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と《 食べるとは、一体「どうやって」という方法について 》。

 主は、こう議論する彼らには※53~58節 「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません・・・」とのみ言われ、主の《 肉を食べ、血を飲む者に及ぶ結果を話され 》象徴的な言い方のままにされた。
 そして大胆に、結果は、54節 「永遠のいのちを持」ち、56節 「わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります」と《 主との交わりを持つ 》と!!
 この恵みの経験は、「肉を食べ、血を飲む」ことによって得られるという以上の表現はない。食べ、飲むことによらない限り、人の内に主が形造られる奇跡は起こり得ない。
 もし彼らが、主のおことばを聞いて、是非その恵みに与りたいとするならば、「どうやって」との非難による議論をやめて求道するならば、主はその問いに答えられる。その応答は、受難週での最後の晩餐で語られたおことばであり、十字架刑を前に、マタイ26章26~28節 「取って食べなさい。これはわたしのからだです」 「この杯から飲みなさい。これは・・・罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です・・・」と。即ち、十字架による赦しと清めを感謝して受けることを意味すると。

※ 主は、求める者でありや否やを見て扱われるお方と覚えて、より謙虚に、主に聞く者でありたい。

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