聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 23


ヨハネの福音書6章22~40節

 先週は、五千人の給食後の《 主の水上歩行 》の出来事を、マタイとマルコとの並行記事を合わせ読みながら、主が、マタイ14章22節 「弟子たちを舟に乗り込ませ」たという《 単独行動させた主のお心 》に学んだ。

ⅰ 弟子たちは、マルコ6章52節 「パンのことを理解せず、その心が頑かたくなになって」とある《 弟子たちの内的深刻な霊的実情を、彼らに知らせる必要 》から。
 彼らの心の頑なさの出所を、主が弟子たちを《 マルコ6章45節 「無理やり」にでなければ舟に乗らなかった点、14、15節 「王にするために連れて行こう」とする群衆たちに共鳴する、ローマからの解放を求める世的価値観、出世欲 》に見た。群衆の反応を歓迎し、その実現の為に一役買おうとでも思ったのか? 主に帰すべき称賛を〈弟子たちがパンを配給したことで〉自らに帰して高揚したからか?

ⅱ 彼らが自らの内的必要の為に《 主を、自主的・自発的に求める求めを引き出さなければならなかった 》から。
 マルコ6章48節 「弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て」近づかれたものの、「通り過ぎるおつもりであった」主。その主も彼らが、同49、50節 「叫び声をあげた」時、直接彼らに近づいて関わられた。

ⅲ 19節 「・・・イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見」ることで、弟子たちには《 聖父を信頼して生きるとはどの様なことなのかの実物教訓 》の必要から。

※ 主のご訓育に与っている者として、弟子たちを単独行動させられた主のお扱いから自ら吟味を!! と。


 今朝は、主の水上歩行の※22節 「その翌日」、カぺナウムでのこと、五つのパンと二匹の魚の奇跡を行われた主を見て、15節 「王にするために連れて行こうと」熱を上げた人々が、その主を追い掛けてやって来た場面に注目する。
 《 五つのパンと二匹の魚 》の奇跡を経験した彼らに、奇跡が何の為に行われたのか、主ご自身が、32c'、33節 「わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです」、35節 「わたしがいのちのパンです」と明らかにする為のものだったことを明かされた場面!!
 6章22~71節がその証しであるが、《 三種類の人々とのやり取り 》だったことが分かる。今朝は、先ず向き合われた群衆たちとのやり取りに学ぶが、その三種類の人々とは?
 22~40節では、群衆たち。
 41~59節では、「41 ユダヤ人たち
は、イエスが『わたしは天から下って来たパンです』と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた」に発展した為、これまでの屋外から場面を会堂【59 これが・・・カぺナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである】に移動してユダヤ人と。
 60~71節では、「60 これを聞いて、弟子たち【十二弟子以外】のうちの多くの者が言った。『これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。』 61 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた」と、更に話は絞られて弟子たちにと。

 先ず※22~40節に見る《 群衆たちとのやり取り 》に注目を。
 ここで主が語っておられる群衆たちは、ご自身の予定を変更してまでも迎えられた人々である。しかも、マルコでは「彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、・・・彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。6章34節」と。
 しかしその主がここでは、その彼らを厳格に扱っておられるのを見る時、《 愛の本質とは何か? 》を考えさせられる。
 確かにあの五千人の給食は人々を熱狂させたが、あの時主は、その場から身を引かれたお方。彼らの内面に巣食っている卑しい野望に背を向けられたお方。だが誰も、そのお方の求めておられるところを理解しなかった。何とも厚かましく、彼らは肉的野心のまま後を付けて来て、25節 「先生、いつここにおいでになったのですか」と迫って来たのだ。
 主はこの時、以前のようには群衆たちを手放しで喜ばれず、むしろ、彼らの本音を引き出し、彼らの野望を容赦なく扱い、地上的価値観から天的価値観に取り戻そうとされた。やはり主は、エルサレムの神殿の宮清めの為に鞭を振るわれた《 肉には妥協されない厳格なお方 》なのだ。

主は《 こうした群衆の何を扱われたか? 》に注目したい。

① 26節 「まことに・・・言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹〈満足〉したからです」と《 主を求める動機 》を扱われた!!

 主に何を求めて、「先生、いつ・・・」とやって来るのか? と、彼らの求める的外れの現状にメスを入れられた。
 彼らは図星を指されたのだ。主を、救い主としての「しるし」を行われたお方、罪から救うお方としではなく、今日のパン、即ち地上的安定の為にのみ求めた動機をである。主は、27節 「永遠のいのちに至る食べ物」としてご自身を提供された。何故? 主こそ一時的ではなく恒久的だから。

② 29節 「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」と、永遠のいのちに与る道を示し《 わざに頼ろうとして、決して信仰によらない肉 》を扱われた。

 主は彼らに、27節 「・・・働きなさい」と言われたが、何らかの努力をするようにと言われたのではない。これは、彼らの理解が神からいつも何か【義? 恵み? ご好意】を得ようとする時、内的在り方よりも外的在り方を重視し、“ これだけしている、こんなことはしていない、だから私は、正しい。義と認められ、いのちに与れる ” とする、その考えの誤りに気付かせようと敢えて言われたおことば。
 案の定、28節 「神のわざを行うためには、何をすべき」と飛び付いて来た。そこで主は、29節 「信じること」だと言われたが、30、31節 「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何を」とは・・・何と!! お粗末。信じるに足るしるしを見た筈。
 唯、パンを求めるだけで、主を救い主として信じてはいない事実の指摘に白しらを切ろうと尋ねる頑なさ〈36節〉。

※ 不正直な群衆を厳格に扱って愛された主に信頼したい!!

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