聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 22


ヨハネの福音書6章16~21節

 先週は、四つ全ての福音書に記録のある《 五千人の給食 》で、他の福音書との読み合わせから、6章1節 「その後のち」とは、5章のエルサレムからの北上後、カぺナウムを拠点に《 ガリラヤでの本格的な伝道 》での一年間が経過してからの出来事だったことに触れて《 奇跡での主のお心を 》学んだ。
 多忙極まりない日々、主が弟子たちを人里離れた、1節 「ティベリアの湖」の向こう岸に移し、静まろうとされた矢先でのこと。

ⅰ 5節 「来るのを見て・・・言われた」に主の群衆への愛を。
 主が静思の時をと望んで退かれたにも拘らず、付きまとって来る群衆を見た時、直ちに喜んで彼らに向き合われた主のこの柔軟性は、主の品性の輝きであり、5章19、20、30節《 聖父の愛に愛で応える従順さ 》による。柔軟性に欠くのは自己愛に縛られることによると自戒を。

ⅱ 5、6節 「・・・見て、ピリポに言われた。『どこからパンを・・・。』・・・ピリポを試すためであり・・・」に主の弟子を育てる愛を。
 残念ながら、弟子たちは完全に主を【奇跡を見ながらも、行われるお方としての信頼を寄せるどころか】度外視!!
 ピリポは※7節《 そろばん勘定に走って悲観的 》で、アンデレは※8、9節で《 多少の期待感をもって臨んだものの挫折 》。
 彼らは、主が唯、彼らを訓練上扱われただけのことなので、「どこから」と言われたお方を信頼すべきだった。

ⅲ 11節 「感謝の祈り」に主の聖父への、信頼する不変の愛を。
 主が、弟子たちが悲観した《 パンと魚 ⇒ 象徴的:大麦と小魚 》を感謝されたのは《 聖父との強固な信頼関係 》による。

※ 主への信頼無き信仰生活は存在し得ないとの自戒を、と!!


 今朝は、五千人の給食後に行われた《 主の水上歩行 》の出来事について、マタイとマルコとの並行記事【cf. 別紙】を合わせて読みながら学びたい。
 この出来事が、マタイ、マルコのそれぞれの接続語に「それからすぐに」とあるのは、突如の《 五千人の給食の必要 》の為 中断をやむなくされた《 弟子たちとの聖別された機会 》を再度、取り戻そうと願われた時のことだったと伝えている。
 その時、マタイ14章22節 「イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて」、《 単独行動させた主のお心 》に学びたい。
 主は、ご自身のみで※15節 「再び【3節の場所へ、5節『目を上げて』とは、祈りから起き上がられ】ただ一人で山に退かれた」が、主が弟子たちのもとに行かれたのが※マタイ14章25節 「夜明けが近づいたころ」とあるので、10時間程の《 聖父との交わり 》後ということになる。

何故主は、弟子たちを単独行動させられたのか?

① 弟子たちは、マルコ6章52節 「パンのことを理解せず、その心が頑かたくなになっていたから」と《 弟子たちに 自らの内的深刻な実情を知らせる必要 》から。

 この聖句は、弟子たちが自分たちを悩ましていた強風を主が直ちに治められたことに驚いた理由として出て来ているが、これが彼らの霊的実態との指摘。折に触れて主は《 彼らに自らを知る機会を与えよう 》とされるお方なのだ。
 五千人の給食時に、5節 「どこからパンを買って来て・・・」に答えさせることによっても然りだった。

 彼らが気付かされなければならなかった《 心の頑なさ 》、主の活ける事実を目の当たりにしつつも、未だに、マタイ14章31節 「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われなければならない《 致命的な霊的状態 》である。
 その心の頑なさの出所は、主が弟子たちを群衆から引き離すのに、マルコ6章45節 「無理やり舟に・・・」にある。
 五千人の給食後 主が《 今にも、14、15節 「王にするために連れて行こう」とする群衆たちの熱狂振りを 》警戒して、直ちにその場を立ち去ろうとしておられたが、弟子たちにおいてはそうではなかった。
 弟子たちには内心、実は、群衆同様のローマからの解放を求めるこの世的価値観と個人的立身出世欲【後日、主が吐露された受難を、ペテロがとんでもないと叱り付けるほどの野望】があるのだから、想像に難くない。
 弟子たちにとって、目の前の群衆が唯の煩わしい存在でしかなかった時には彼らの解散を願ったが、いざ、彼らの主への【奇跡を行われたお方として喜ぶ】見方に共鳴してか? 群衆の反応を歓迎し、その実現の為に一役買おうとでも思ったのか? 主に帰すべき称賛を〈弟子たちがパンを配給したことで〉自らに帰して高揚?
 主は彼らの心の奥に巣食っている《 主の御心に逆らう肉 》を見抜かれ、熱気の帯びたステージから弟子たちを「無理やり」降ろされ、直ちに、マタイ14章22節 「弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させ」なければならなくされたのだから。

② 今一つは、彼ら自身から内的必要の為に《 自主的・自発的叫びを引き出さなければならなかった 》から。

 主は、マルコ6章48節 「弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て」近づかれたのではあるが、その初めは、「そばを通り過ぎるおつもりであった」のだ。主が彼らに直接関わられたのは、同49、50節 「・・・弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた。みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。おそれることはない』と言われた」と。
 主は、弟子たちを群衆から「無理やりに」引き離された時、彼らをご自身の許に留まらせて窘たしなめずに、舟に乗り込ませて送り出された。何故なら、唯言えば良いというものではなく、彼ら自ら叫ぶ声を待ってでなければないから。

③ 19節 「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て」とあるが、現実、聖父に信頼して生きるとはどの様なことなのか《 実物教訓 》、これこそ彼らに必要だと理解されたから。

 マタイ14章28~30節によると、ペテロは水の上を歩こうとはしてみたが、主の《 聖父を信頼して生きる信仰には程遠かった 》為におぼつかず、直ちに「沈みかけた」。それでも後、弟子たちにはこの「・・・見て」が必要不可欠な経験となった。

※ 主のご訓育に与っている者として、これらを吟味すべき!!

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