聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 21


ヨハネの福音書6章1~15節

 先週は主の五つの証言の中、続く三つの証言に学んだ。

ⅰ 36節 「わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざ」による証言。
 主のエルサレムでのカナの婚礼に始まる諸奇跡は、ニコデモの※3章2節 「神がともにおられなければ・・・だれも・・・」と、認めざるを得なくされた《 救い主としてのしるし 》だった。

ⅱ 37節 「また、わたしを遣わされた父ご自身」による証言。
 受洗時【ルカ3章21、22節】、変貌山【ルカ9章35節】、受難週【12章28~33節】と三回。何れの場合も、主には聞こえても、それを唯の音としてでしか捉えられなかった。
 それは、ヨハネ5章38節《 父のみ思いが生きていない。信頼しないから 》と。そのかたくなさからの癒しは、信じない心の動機を調べ、嫉妬? 対抗意識? 高慢? によると分かった肉を嫌い憎み、主の十字架に付けることによってのみ得る。

ⅲ 39~47節 「聖書」による証言。
 39節※聖書を熱心に研究はしても、主ご自身に来ないのであれば無意味!! 何故なら、46節 「モーセが書いたのはわたしのこと」だからで、聖書は、「キリストに導く養育係【案内役】ガラテヤ3章24節」としての役割を持つ。それは、45節 「あなたがたを訴えるのは、・・・モーセ」と、罪人に罪の事実に気づかせ、救いの必要性に迫り、主の十字架へと追い込むから。聖書は知的満足の為にはなく、遂には、罪人を十字架の主によって永遠のいのちに与らせる書だから。

※ これだけの証言がありながら信じないのは、その者の内にある《 神に反逆する生来の罪 》とわきまえて砕かれたい、と!!


 今朝は、四つ全ての福音書に記録されている《 ガリラヤ湖岸で行われた五千人の給食 》の出来事に注目したい。
 他の福音書と読み比べる時、6章1節 「そののち」とあるのは、5章でのエルサレムのベテスダの池で行われた《 三十八年間病に縛られていた人の癒やし 》後、ほぼ一年経ってからの出来事だったことが分かる。
 主は、そのベテスダの池を出て北上されてからの一年、カぺナウムを拠点に《 ガリラヤでの本格的な伝道 》を開始されたことになる。その間の働きについては、ヨハネ以外の三つの福音書に記録が。因みにルカでは、4章16節~9章9節までの働きがそれで、9章10~17節が《 五千人の給食 》の記事となる。その数か月後には、ルカ9章51節 「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」と、半年間に及ぶエルサレムへの最後の旅が始まることに。
 従って、この《 五千人の給食 》の奇跡から一年後には受難週を迎えるという極めて緊迫した時期を迎えることになる。
 主が行われた《 五千人の給食 》は、9節 「大麦のパン五つと、魚二匹」から、「食べた者は、女と子どもを除いて男 五千人ほどであった。マタイ14章21節」という奇跡で、その結果、14、15節 「人々はイエスがなさったしるしを見て、『まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために・・・を知り、再びただ一人で山に退かれた」と、その熱狂振りは、危うくローマへの謀反的行動に巻き込まれる程だった。

 2節の「大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たから」とは、先に言及した一年余りのガリラヤ伝道の働き【汚れた霊に憑かれた人、ペテロの姑の熱病、ツァラアト、中風、片手の萎えた人、百人隊長の僕、ナインでの寡婦の息子、盲人、悪霊に憑かれたゲラサ人、ヤイロの娘、長血の女・・・の癒し】を見てのこと。
 多忙極まりない日々、主が弟子たちを人里離れた場所、1節 「ティベリアの湖の向こう岸」に移し、時を聖別して静まる機会をとのお心から退こうとされた矢先でのことだった(マルコ6・31)。
 ところが、それを許さない事態を迎えることになった。
 主は、5節 「・・・大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て」、直ちに予定を変更され、押し寄せて来る群衆に対応された。ここに主のお心を学びたい。

① 5節 「来るのを見て・・・言われた」に主の群衆への愛を。

 主が静思の時をと望んで退かれたにも拘らず、付きまとって来る群衆を見た時、直ちに彼らに向き合われた主のこの柔軟性に見るのは、主の品性の輝きである。
 5章19、20、30節《 聖父の愛に愛で応える従順さ 》による。
 いつ如何なる場合、何事であれ、為すこと、考えることの全て、自己本位的な意図など微塵もなく、只管ひたすら、ご自身のご意思を聖父のご意思に完全に従わせておられたから。
 自己本位的な私たちは、その習性を培われる必要がある。
 柔軟性に欠くのは自己愛に縛られることによると自戒を。

② 5、6節 「・・・見て、ピリポに言われた。『どこからパンを・・・。』イエスがこう言われたのは・・・試すため・・・、ご自分が何をしようとしているのかを、知って・・・」に主の弟子を育てる愛を。

 主の弟子たちへの「どこから」とは、唯、彼らを試験する為のものでしかなかった。主は彼らの出方を熟知しておられたが、自らを知らない弟子たちに自分を知らせることを目的とされてのこと。何故なら、主には心積もりがおありだったから。弟子たちは完全に主を【奇跡を見ながらも、行われるお方としての信頼を寄せるどころか】度外視!!
 ピリポは※7節《 そろばん勘定に走って悲観的 》で、アンデレは※8、9節《 多少の期待感をもって臨んだものの挫折 》。
 しかし主は唯、彼らを訓練上 扱われただけのこと故、彼らは、「どこから」と言われたお方を信頼すべきだった。

③ 11節 「イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから・・・分け与えられた」に主の聖父への信頼による不変の愛を。

 主は弟子たちの惨めな霊的状態を彼らに知らせることをもって良しとされ、淡々と《 聖父への全き信頼をもって 》みわざを行われた。
 主は、弟子たちの「足りません、それが何になるでしょう」と言う《 パンと魚 ⇒ 象徴的:大麦と小魚 》をむしろ感謝された。主はいつも、結果を見る前から聖父から受けて感謝されるお方。それは《 聖父との強固な信頼関係 》による。

※ 主への信頼無き信仰生活は存在し得ないと自戒したい!!

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