聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 20


ヨハネの福音書5章36~47節

 先週は主が、18節をつぶやくユダヤ人に《 聖父と御子の関係 》を明確にした上で、ご自身の正しさを証しされた証言に学んだ。
 先ず、30節b’ 「わたしのさばきは正しい」と、ご自分の証言から始められ、バプテスマのヨハネによる証言 32~35節/みわざによる証言 36節/父なる神による証言 37、38節/聖書による証言 39~47節と示されたが、その中の、《 主ご自身による証言とB・ヨハネによる証言 》に学んだ。

ⅰ 主ご自身の証言〈30節〉
 その根拠の鍵は、詳訳より 「わたしは自分自身からは何もすることが出来ない。わたしは自分自身の喜びとすることを願わず、わたしを遣わされた方のみこころだけをしようと【神の命のまま、神の喜びのままを】願うから」だと。

ⅱ B・ヨハネによる証言〈32~35節〉
 B・ヨハネに一目を置いていた彼らが、主についての証しを聞いて知っているのだから、わたしにつまずく必要はないと。そして、35節 「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとし」ていたのだから、彼の証言を確かなものとして信じさえすれば良いと、諭された。
 主のご真実がB・ヨハネによって証明されたように、全ての神の子たちから証明されるべきとの挑戦を受けた。
 ピリピ1章20節 「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」に徹した自己放棄の今を生きるか? と!!

※ ルカ7章35節 「全ての知恵の子らが証明」の一人にと!!


 今朝は、続く三つの証言に学んで Message としたい。

① 36節 「わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざ」による証言。

 既に主が、カナの婚礼でのこと、2章6節 「ユダヤ人のきよめのしきたりによって」置かれていた六つの石の水がめの水をぶどう酒に変えられたわざについて、同11節 「イエスはこれを最初のしるしとして・・・行い、ご自分の栄光を現された」とあったが、実に※証拠としての奇跡だった。
 その後も主がエルサレムで行った多くの奇跡は、ユダヤ人議員ニコデモが言った、3章2節 「神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません」と、認めざるを得ないのだ。
 10章36~38節と語られる主のおことばは、主を神と認めない理由は唯、ユダヤ人のかたくなさにあるとの糾弾なのだ。
 もしお互いも、幾度にも及ぶ主の恵みの証しを受けながら、それでも事ある毎に、主への信頼を即座に持てず、思い悩むとしたならば、ユダヤ人に同様と自戒すべきである!!

② 37節 「また、わたしを遣わされた父ご自身」による証言。

 このヨハネでは、受難週での※12章28~33節 「『・・・父よ、御名の栄光を現してください。』すると、天から声が聞こえた。『わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。』そばに立っていてそれを聞いた群衆は、『雷が鳴ったのだ』と言った。ほかの人々は、『御使いがあの方に話しかけたのだ』と言った。・・・『この声が聞こえたのは・・・』」と。
 他に二度あった。受洗の時 ルカ3章21、22節 「・・・天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」/変貌山でのこと ルカ9章35節 「すると雲の中から言う声がした。『これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。』」と。しかし何れの場合も残念ながら、主には聞こえていても、それを唯の音とでしか捉えられない。
 それは、ヨハネ5章38節 詳訳 「又、あなたがたの心の中に、父のみことば【み思い】が生きていない。何故なら、あなたがたは父が遣わされた者を心服しない、信頼しない、より頼まないからである」とある。
 従って、それは何と言っても《 主の語られるところに従おうとしない 》ここが、問題、その頑なさの故でなのだ。
 その頑なさからの癒しは、信じようとしないその心の動機を調べ、それが【嫉妬? 対抗意識? 優位な立場に居たいとする高慢?】だと分かって その腐敗した肉の性質を嫌い憎み、主の十字架に付けることによってだけ得られる。
 但し、絶望感、挫折感に襲われたパウロは、使徒9章1~11節 「※4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた」、「※7 同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた」ここで経験した。
 現在、私たちにおいては、音声をもって聞く経験には至らずとも、主の御心に従おうとはしない事実を見たならば、自らの肉的性質をことごとく忌み嫌い、十字架による清めに与り、その都度 聖霊に満たされて生活するならば、御声に与る。

③ 39~47節 「聖書」による証言。

 39節 詳訳 「あなたがたは聖書によって永遠のいのちを得るものと考える【信じている】ので、その聖書を熱心に研究・熟読する。ところが聖書自体はわたしについて証言するものである」と、彼らの聖書熱心を認めはしても、わたしに来ないのであれば、その熱心は無意味で無価値!! であると。
 だがそれでは本当に知ったとは言えない。何故なら、46節 「モーセが書いたのはわたしのことなのですから」と。モーセ五書は、天地創造と人類の創造と堕罪を初め、そこで必要になった主による贖いの予告と、その生涯等。究極の役割は、ガラテヤ3章24節 「キリストに導く養育係【案内役】」だとし、45節 「あなたがたを訴えるのは、・・・モーセ」と、罪人に罪の事実に気づかせ、救いの必要性に迫り、主の十字架へと追い込まれるからだ。
 聖書は知的満足の為にはなく、読者が自らの罪人たる正体に気づかされて罪からの救いの必要性を知り、救い主の代価による主の遠大なプログラム《 神の御心の開陳書 》、主の十字架によって永遠のいのちに与らせる書なのだ。
 彼らをしてこの最も自然な出方に導かせないものは?
 44節 「互いの間では栄誉を受けても・・・神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか」とあるこの最たる肉的性質である。

※ これだけの証言でも信じないとするなら、この信じない者の内にある《 神に反逆する生来の罪 》とわきまえて砕かれたい!!

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