聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 19


ヨハネの福音書5章30~47節

先週は、「三十八年も病気にかかってい」た人を癒された主が、ユダヤ人たちから冒涜だとして【18節】殺意を抱かれた時に、毅然とした態度をもって彼らに明言されたおことばに学んだ。

ⅰ 主の働きの出所は、《 聖父の愛に応える愛 》によると。
17節 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも」/19節 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も・・・。すべて父がなさることを、子も同様に・・・」と。何故なら、20節 「父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです」とあるからだ。あのゲツセマネの園における葛藤の末、決意された、十字架刑によるあがないの為の杯を飲み干すという働き【18章11節】こそ、その典型であるが、主も又、聖父から与えられた職務を遂行するに当たり、その都度、迫害による殺害をものともしない《 愛 》をもって応えると。

ⅱ 主の、このいのちを賭しての働きの究極は、24節 「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」とある、人類の救いであると。
現世的には、悔い改めによる《 新生 》、罪深い性質からの清め《 聖化 》、遂には聖霊の満たしによる《 新しい生活 》に導き、主の聖前に出る日を待ち望む者とする。将来的には、御国【黙示録21章1~4節】に迎え入れられる。

※ 29節《 善を行った者【悔い改めの実を結ぶ者】か、悪を行った者【悔い改めずに生来の性質で生きる者】か 》の何れかの結果が厳粛。主の聖父を愛するが故に払われた代価、その救いに感謝をと!!


今朝は、主が明言された主張《 19~29節 》が、どれだけ確かなものかを示す為に語られた証言に学びたい。
先ず30節a-cでの ご自身についてのご自分からの証言として、b'「わたしのさばきは正しい〈公正、義にかなっている〉のです」から始められた。
但し主はここで、31節 詳訳 「わたしが自分だけで自分のことを証言するのであるならば、わたしの証言は有効ではない〈何の価値もない〉」と仰っている。
本来なら、8章14節 「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません」と、実は真実なのだから、「わたしの証言は有効ではない」と言う必要はない。
にも拘らず、「自分だけで自分のことを証言するのであれば、何の価値もない」と言われるのは、ユダヤ人が言って来るであろう反発を読み取ってのこと。あたかもご自身を法廷に立たせるかのように、自らの真実潔白を証明するのに必要とされている証拠を差し出されたのだ。
バプテスマのヨハネの証言 32~35節 「わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます・・・」。
みわざによる証言 36節 「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、・・・父がわたしを遣わされたことを証ししているのです」。
父なる神による証言 37、38節 「わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました」。
聖書による証言 39~47節 「聖書は、わたしについて証ししているものです」。

今朝は、初めの《 主ご自身による証言とB・ヨハネによる証言 》に学んで、メッセージとしたい。

① 主ご自身の証言〈30節〉

ここで主がご自身の証言の正しさの根拠を提示された。
その根拠の鍵は、詳訳 「わたしは自分自身からは何もすることが出来ない〈独立しては、自分の意のままには何もすることが出来ない。唯、神に教えられたままを《 神の命を受けたままを 》することが出来る〉。わたしは命ぜられた通りに決定する。御声の通りに、決定する。聞いたとおりに裁く。わたしの裁きは正しい〈公正で、義に適っている〉。何故なら、わたしは自分自身の意のままを行おうとはせず〈自分自身の喜びとすること、自分自身の意図に沿うことをしたいと願わず〉わたしを遣わされた方のみこころ〈お喜びになること〉だけをしようと願うから」にある。
もし私たちも、主の如くこの規準に従って今日を生きるならば、その時にだけ、私たちは正しいと言えるのであって、《 聖父と御子との関係を無視したのでは 》どんなに人間的に正しいと見えても、それは正しくないとわきまえたい!!
箴言16章2節 新共同訳 「人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる」との宣告に自戒を!!

② B・ヨハネによる証言〈32~35節〉

実際主は、ご自身の証言に次いで、証言者としてB・ヨハネを登場させているが、ここで注意深く見ておきたい。
ここでB・ヨハネを登場させたのは、主が人からの証言を必要としておられたからではなく、34節 「わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために・・・」と。
何故なら、33節 「あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました」とあるように、B・ヨハネに一目を置いていた彼らが、既に、1章19~28節のやり取りで、主についての証しを聞いて知っているのだから、わたしにつまずく必要はないとうながされた。
そしてあなたがたは、35節 「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました」ではないか!! 彼の証言を確かなものとして信じさえすれば良いと、諭されたのだ。
主は、B・ヨハネによって、主のご真実を証明された。
別な言い方をするならば、私たちには挑戦なのでは?
それは、主のご真実であることがB・ヨハネによって証明されたように、実は主のご真実は、全ての神の子たちから証明されるべきで、果たして私は、「燃えて輝き続けた明かり」として生きているか? なのだが。ピリピ1章20節 「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」に徹した自己放棄の今を生きるか? と!!

※ ルカ7章35節 「すべての知恵の子らが証明」の一人に。

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