ヨハネの福音書5章19~29節
前回は、2節 「ベテスダと呼ばれる池」でのこと、大勢の病む人々が群がっていたが、主の、5節 「三十八年も病気にかかっている人」に留められた心に学んだ。
ⅰ 6、「・・・見て・・・知ると」と主は、人の見る目とは違い、5節 「三十八年も病気にかかっている人」 ⇒ 詳訳《 根深い病に掛かっていた 》と、身体的絶望感も然ることながら、その絶望感から心理的にも影響を与え、遂にはあきらめへと、事態は深刻化している人に注がれた。
10節のユダヤ人の関心が、最悪の状態にあった人の癒し、救いには全くなく、むしろ癒しが「安息日」だったことで怒り、それが主によるものと分かった時には、16節 「迫害」し、18節 「殺そうとする」出方が 実は一般的なのでは?
ⅱ 6節b 「良くなりたいか」と、不平不満を抱く病人の意志に働き掛けられるお方。
7節、彼のあきらめかけていた意志を目覚めさせるべく、8節 「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と命令。9節 「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した」と!!
ⅲ 14節 「後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて」と、恵みに与った病人のその後を指導されるお方。
悔い改めの確かさと恵みに留まる必要性を ⇒ ピリピ2章12節 詳訳 「真剣な注意深さと敏感な良心と誘惑に対する警戒をもって、何事も神の怒りを招く様なことや、又キリストの名を辱める様なことから用心深く遠ざかって自分自身の救いを達成【開拓し、目標に達成させ、完成】させなさい」。
※ 魂の救いにのみ関心を抱かれる主の心に近づきたい、と。
今朝は、ユダヤ人たちが、「三十八年も病気にかかってい」た人を癒された主を、18節 「安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」として迫害し、殺そうとまでして来た時、毅然とした態度で対応された主のおことばに学びたい。
それは《 聖父と御子との関係 》を明言されたおことば、即ち、彼らの殺意がここにあったからであるが、このことを明らかにすれば、彼らの殺意はより過激になるであろうことを熟知された上での証言である。
① 主の働きの原動力は《 聖父との愛の関係にある 》こと。
17節 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」/19節 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです」とある、この原動力であるが。
言うまでもなく、「自分から行うことはできません」とは、ご自身の思いのまま幾らでも行おうと思えば行うことが出来るがしない、の意である。いつでも主は、聖父に密着した行動を取ることにしか関心がないからだ。
主をしてそのような行動を取らせるのは、20節 「それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです」とあるからだ。信頼関係に生きるとはこういうこと!! 主は、聖父から示される関係を愛の故と捉 え、その聖父の期待に応えることを以って愛を示された。
主は、私の神との関係について模範を示されたのだ。
創世記18章17~19節 「主はこう考えられた。『わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、・・・成就するためだ」。同20、21節 「主は言われた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って・・・』」と、《 主のみ思いの吐露、示し 》は、愛の故なのだから。
主がご受難を「示し始められた」時、ペテロの応えは「主よ、とんでもないことです」だったが、私は?
聖父が最終的に示されたこととは、あのゲツセマネの園における葛藤の末、決意された、十字架刑による贖いの為の杯を飲み干すという働きである。18章11節 「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか ⇒ 飲まないということがあり得ようか」と、主は勝利された。
10章17、18節 「わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てる・・・。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分から【自発的に】いのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり【力を持っており】、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から《 わたしの職務として 》受けたのです」。
主が聖父から与えられた職務を遂行するに当たり、その都度、迫害による殺害をものともしない《 愛 》による。
② 主の、このいのちを賭しての働きの究極にあるものは・・・
21節 「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」と。
この「いのち」とは、24節 「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」である。
「永遠のいのちを持ち」とは《 神のいのちに与る 》こと。
現世的には、先ず、神から離れて生きていたことが罪と知らされ、神なき生涯が生み出した様々な罪深い生活から方向転換すべく悔い改めて《 新生 》し、その後、更に深い内面に巣食っている罪深い性質からの清めに与って《 聖化 》され、遂には聖霊の満たしによる《 新しい生活 》に導かれ、主の聖前に出る日を待ち望む者とされた。
将来的には、黙示録21章1~4節 「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。・・・」という、やがての御国に迎え入れられる。
厳粛なことには裁きが免除され、「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある【との結合の中にある】永遠のいのちです。ローマ6章23節」と。
※ 29節《 善を行った者【悔い改めて実を結んだ者】か、悪を行った者【悔い改めずに主に従わずに生来のままの性質で生きる者】であるのか 》の何れかの結果が厳粛!! 主の聖父を愛するが故に払われた代価故の救いに感謝したい!!
前回は、2節 「ベテスダと呼ばれる池」でのこと、大勢の病む人々が群がっていたが、主の、5節 「三十八年も病気にかかっている人」に留められた心に学んだ。
ⅰ 6、「・・・見て・・・知ると」と主は、人の見る目とは違い、5節 「三十八年も病気にかかっている人」 ⇒ 詳訳《 根深い病に掛かっていた 》と、身体的絶望感も然ることながら、その絶望感から心理的にも影響を与え、遂にはあきらめへと、事態は深刻化している人に注がれた。
10節のユダヤ人の関心が、最悪の状態にあった人の癒し、救いには全くなく、むしろ癒しが「安息日」だったことで怒り、それが主によるものと分かった時には、16節 「迫害」し、18節 「殺そうとする」出方が 実は一般的なのでは?
ⅱ 6節b 「良くなりたいか」と、不平不満を抱く病人の意志に働き掛けられるお方。
7節、彼のあきらめかけていた意志を目覚めさせるべく、8節 「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と命令。9節 「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した」と!!
ⅲ 14節 「後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて」と、恵みに与った病人のその後を指導されるお方。
悔い改めの確かさと恵みに留まる必要性を ⇒ ピリピ2章12節 詳訳 「真剣な注意深さと敏感な良心と誘惑に対する警戒をもって、何事も神の怒りを招く様なことや、又キリストの名を辱める様なことから用心深く遠ざかって自分自身の救いを達成【開拓し、目標に達成させ、完成】させなさい」。
※ 魂の救いにのみ関心を抱かれる主の心に近づきたい、と。
今朝は、ユダヤ人たちが、「三十八年も病気にかかってい」た人を癒された主を、18節 「安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」として迫害し、殺そうとまでして来た時、毅然とした態度で対応された主のおことばに学びたい。
それは《 聖父と御子との関係 》を明言されたおことば、即ち、彼らの殺意がここにあったからであるが、このことを明らかにすれば、彼らの殺意はより過激になるであろうことを熟知された上での証言である。
① 主の働きの原動力は《 聖父との愛の関係にある 》こと。
17節 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」/19節 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです」とある、この原動力であるが。
言うまでもなく、「自分から行うことはできません」とは、ご自身の思いのまま幾らでも行おうと思えば行うことが出来るがしない、の意である。いつでも主は、聖父に密着した行動を取ることにしか関心がないからだ。
主をしてそのような行動を取らせるのは、20節 「それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです」とあるからだ。信頼関係に生きるとはこういうこと!! 主は、聖父から示される関係を愛の故と
主は、私の神との関係について模範を示されたのだ。
創世記18章17~19節 「主はこう考えられた。『わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、・・・成就するためだ」。同20、21節 「主は言われた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って・・・』」と、《 主のみ思いの吐露、示し 》は、愛の故なのだから。
主がご受難を「示し始められた」時、ペテロの応えは「主よ、とんでもないことです」だったが、私は?
聖父が最終的に示されたこととは、あのゲツセマネの園における葛藤の末、決意された、十字架刑による贖いの為の杯を飲み干すという働きである。18章11節 「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか ⇒ 飲まないということがあり得ようか」と、主は勝利された。
10章17、18節 「わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てる・・・。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分から【自発的に】いのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり【力を持っており】、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から《 わたしの職務として 》受けたのです」。
主が聖父から与えられた職務を遂行するに当たり、その都度、迫害による殺害をものともしない《 愛 》による。
② 主の、このいのちを賭しての働きの究極にあるものは・・・
21節 「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」と。
この「いのち」とは、24節 「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」である。
「永遠のいのちを持ち」とは《 神のいのちに与る 》こと。
現世的には、先ず、神から離れて生きていたことが罪と知らされ、神なき生涯が生み出した様々な罪深い生活から方向転換すべく悔い改めて《 新生 》し、その後、更に深い内面に巣食っている罪深い性質からの清めに与って《 聖化 》され、遂には聖霊の満たしによる《 新しい生活 》に導かれ、主の聖前に出る日を待ち望む者とされた。
将来的には、黙示録21章1~4節 「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。・・・」という、やがての御国に迎え入れられる。
厳粛なことには裁きが免除され、「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある【との結合の中にある】永遠のいのちです。ローマ6章23節」と。
※ 29節《 善を行った者【悔い改めて実を結んだ者】か、悪を行った者【悔い改めずに主に従わずに生来のままの性質で生きる者】であるのか 》の何れかの結果が厳粛!! 主の聖父を愛するが故に払われた代価故の救いに感謝したい!!
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