ガラテヤ人への手紙5章16~26節
今朝は、主の復活後の50日目、主の言われた「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。使徒1章4節」との指示に従って待ち望んでいた弟子たちに、賜物としての聖霊が降 られたペンテコステの日を記念し、ガラテヤ5章25節 「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか」を鍵に、今ひとたび、聖霊との歩みについて再確認したい。
① 「御霊によって生きている」について。
6章1節 「御霊の人【詳訳:聖霊に応答し、聖霊に支配されている人】であるあなたがた」と呼ばれている意に同じ。
主のご在世中、弟子たちは未だ、この「御霊の人」ではなかった。その彼らが「御霊によって生きる人」とされたのが、このペンテコステの日である。
何故なら、主と生活を共にしつつも、することなすこと全て、主の心とは相容れない心、即ち自分の※16節 「肉の欲望」、17節 「肉が望むこと」に従っていたからだ。その結果、いつも主からの叱責があり、その最たるものが※マタイ16章22、23節。十字架への道を吐露し始める主の前に立ちはだかったペテロへのもの【主を気遣うやに見える、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」の奥に潜む立身出世を願う野心】。
主は、「下がれ、サタン。あなたはわたしをつまずかせるものだ。あなたは神のこと【神の性質】を思わないで、人のこと【生来の肉の性質】を思っている」と退けられた。ところがその弟子たちも、「御霊の人、御霊によって生きる人」とされた。即ち、肉によって生きる自分に辟易 して降参し、最早肉によって生きるのではなく、内住の聖霊に “ 宜しくお願い致します ” と明け渡すことによってだけで 生きる者とされた。
言い換えるなら、19~21節 「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い【不品行】、汚れ【不潔】、好色【卑猥】、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ【我を張る】、憤り【短気・怒りっぽい気質】、党派心【我が儘 】、分裂【分離】、分派【特殊な意見を持つ異端】、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のもの」とある「肉の欲望」 「肉が望むこと」に振り回されている絶望的な自らを知って、内住の聖霊の支配に委 ねた。
この肉に生きる現状を忌み嫌い、心底から、“ この事実を知った今、最早この肉の奴隷として生きて行きたくない。内住の聖霊に私の全存在を支配して頂きます ” と告白し、明け渡した人である。実際、キリスト者となった者で、いつまでも肉のままの状態で良いとする者がいるのでしょうか? 唯、このままで良い筈がないとしつつも、肉の欲望に執着する人、こうであってはならないと思いつつも勝てずに、留まっている人がいるかも知れない。しかし、21節b 「以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」とある限り、本来、十字架の贖 いは、罪人をして「御霊によって生きる」ようにさせる福音であることを忘れている。
と同時に、その「肉のわざ」を憎むだけではなく、積極的に、「しかし」とある※22~23節 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の性質に与りたいとの 切なる渇きを抱く人である。
② 「御霊によって生きているのなら、御霊によって・・・」について。
いつでもキリスト者としての生き方について勧めがなされる時、強制的なものをもってではなく《 招き 》であることに気づく。その招きは、恵みによって、自らに絶望し、主に似せられることを渇望して《 肉による孤軍奮闘ではなく、聖霊に委ねる在り方 ⇒ 御霊によって生きるべく明け渡した 》のなら、その転機的経験を経て後、「進もうではないか」との継続的経験への勧めである。
ここでしっかり弁えたい。その人の人となりは、全て個人の求めるところに従う為、実にこの選択は厳粛なのだ。主が強引にそのようにさせるのでもなく、又誰かが強要したところで、どうにかなるものではない《 主との個人的な契約の問題 》である。主の招かれた「御霊によって進もうではないか」とは、詳訳 「私たちの行いを支配して頂いて、列を作って前進しようではないか」とあるが、支配された状態を日々《 聖霊の導きを待って従うという位置 》、即ち先走らず、遅れを取らず、テモテ 第二 1章7節 「臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊」である聖霊の歩調に合わせて生活すること。
16節 「御霊によって歩みなさい」、18節 「御霊によって導かれている」生活であるが、その歩みは極めて現実的で、26節 「うぬぼれて【空虚な自慢】、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないように」と、人との係わり合いにおける態度に及ぶもの。
③ 「御霊によって進もうではありませんか」に従うことは個人に委ねられているが、従うべき幸いな理由がある。
16、17節 「・・・そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります【行うことを阻止される】」と、ここにある。
過去、肉の欲望に従っていた私たちがそれを痛み悲しんで、何としても、主の心に生きて行きたいので宜しくと明け渡しさえすれば、聖霊ご自身が私たちの肉と対立して闘って下さり、肉を阻止してくださるお方だから。
私たちの側では、一にも二にも、24節 「自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」に瞬時 従うこと。
即ち、19~21節に列挙されている肉の性質と、実際的に思ったり言ったりした事実を共に “ 憎んで、十字架に付け、主と共に死んでよみがえりました ” と告白すること。
※ 「御霊によって進もうではありませんか」の招きに日々、継続的にお従いしたい。
今朝は、主の復活後の50日目、主の言われた「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。使徒1章4節」との指示に従って待ち望んでいた弟子たちに、賜物としての聖霊が
① 「御霊によって生きている」について。
6章1節 「御霊の人【詳訳:聖霊に応答し、聖霊に支配されている人】であるあなたがた」と呼ばれている意に同じ。
主のご在世中、弟子たちは未だ、この「御霊の人」ではなかった。その彼らが「御霊によって生きる人」とされたのが、このペンテコステの日である。
何故なら、主と生活を共にしつつも、することなすこと全て、主の心とは相容れない心、即ち自分の※16節 「肉の欲望」、17節 「肉が望むこと」に従っていたからだ。その結果、いつも主からの叱責があり、その最たるものが※マタイ16章22、23節。十字架への道を吐露し始める主の前に立ちはだかったペテロへのもの【主を気遣うやに見える、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」の奥に潜む立身出世を願う野心】。
主は、「下がれ、サタン。あなたはわたしをつまずかせるものだ。あなたは神のこと【神の性質】を思わないで、人のこと【生来の肉の性質】を思っている」と退けられた。ところがその弟子たちも、「御霊の人、御霊によって生きる人」とされた。即ち、肉によって生きる自分に
言い換えるなら、19~21節 「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い【不品行】、汚れ【不潔】、好色【卑猥】、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ【我を張る】、憤り【短気・怒りっぽい気質】、党派心【我が
この肉に生きる現状を忌み嫌い、心底から、“ この事実を知った今、最早この肉の奴隷として生きて行きたくない。内住の聖霊に私の全存在を支配して頂きます ” と告白し、明け渡した人である。実際、キリスト者となった者で、いつまでも肉のままの状態で良いとする者がいるのでしょうか? 唯、このままで良い筈がないとしつつも、肉の欲望に執着する人、こうであってはならないと思いつつも勝てずに、留まっている人がいるかも知れない。しかし、21節b 「以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」とある限り、本来、十字架の
と同時に、その「肉のわざ」を憎むだけではなく、積極的に、「しかし」とある※22~23節 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の性質に与りたいとの 切なる渇きを抱く人である。
② 「御霊によって生きているのなら、御霊によって・・・」について。
いつでもキリスト者としての生き方について勧めがなされる時、強制的なものをもってではなく《 招き 》であることに気づく。その招きは、恵みによって、自らに絶望し、主に似せられることを渇望して《 肉による孤軍奮闘ではなく、聖霊に委ねる在り方 ⇒ 御霊によって生きるべく明け渡した 》のなら、その転機的経験を経て後、「進もうではないか」との継続的経験への勧めである。
ここでしっかり弁えたい。その人の人となりは、全て個人の求めるところに従う為、実にこの選択は厳粛なのだ。主が強引にそのようにさせるのでもなく、又誰かが強要したところで、どうにかなるものではない《 主との個人的な契約の問題 》である。主の招かれた「御霊によって進もうではないか」とは、詳訳 「私たちの行いを支配して頂いて、列を作って前進しようではないか」とあるが、支配された状態を日々《 聖霊の導きを待って従うという位置 》、即ち先走らず、遅れを取らず、テモテ 第二 1章7節 「臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊」である聖霊の歩調に合わせて生活すること。
16節 「御霊によって歩みなさい」、18節 「御霊によって導かれている」生活であるが、その歩みは極めて現実的で、26節 「うぬぼれて【空虚な自慢】、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないように」と、人との係わり合いにおける態度に及ぶもの。
③ 「御霊によって進もうではありませんか」に従うことは個人に委ねられているが、従うべき幸いな理由がある。
16、17節 「・・・そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります【行うことを阻止される】」と、ここにある。
過去、肉の欲望に従っていた私たちがそれを痛み悲しんで、何としても、主の心に生きて行きたいので宜しくと明け渡しさえすれば、聖霊ご自身が私たちの肉と対立して闘って下さり、肉を阻止してくださるお方だから。
私たちの側では、一にも二にも、24節 「自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」に瞬時 従うこと。
即ち、19~21節に列挙されている肉の性質と、実際的に思ったり言ったりした事実を共に “ 憎んで、十字架に付け、主と共に死んでよみがえりました ” と告白すること。
※ 「御霊によって進もうではありませんか」の招きに日々、継続的にお従いしたい。
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