ヨハネの福音書5章1~18節
先週は、4章43節以下《 ある王室役人の息子の癒し 》の出来事から、主が彼の※49節 「・・・下って来てください」に、50節 「行きなさい・・・治ります」とだけ言われたところに《 主の求めておられる信仰の何なるか 》を学んだ。
ⅰ 48節 「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません」との主の抗議に耐えられる信仰。
私たちは、主のしてくださる恵みのしるしを? それとも、恵みのしるしを行われる主を求める者? モーセが率いた民たちの信仰が主からの恵みを喜ぶのみで、いざ苦境に立つと、その境遇に腹を立てては主を呪って呟き、モーセに楯突くのが常だった。この実態が頑 なという性質。
ⅱ 50、「行きなさい。・・・息子は治ります」に従う信仰。
彼は、50節b 「イエスが語ったことばを信じて、帰って行った」。へブル11章8~12節の《 アブラハムの信仰 》⇒ 「信仰によって・・・従い・・・知らずに出て行きました。・・・彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです」とあるこの信仰である。
ⅲ 53節 「その時刻が、『あなたの息子は治る』とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた」と、信じた者のみが経験し 知る信仰。
50節b'の「信じて」とこの「信じた」とは内容が違う。先の信仰は、とにかく信じる以外の選択肢はないとの死に物狂いの信仰。しかし後者は主をご真実なお方として信じた。主を知って、満ち溢れる感謝に満ちて信頼する信仰。
※ 主をあくまでも真実なお方として信じる信仰に成長をと。
今朝は、5章1節によると、二度目のエルサレム訪問であるが、2節 「ベテスダと呼ばれる池」でのこと、5節 「三十八年も病気にかかっている人」が救われた記事に注目したい。
この訪問での※1節 「ユダヤ人の祭り」は、2章13節の「ユダヤ人の過越の祭り」と、6章4節の二度目の「祭りである過越」との間にあった祭りで、恐らく、9月か10月に行われる仮庵 の祭りと考えられる。
ベテスダの池には大勢の病む人々が群がっていたが、主が目を留められたのが、5節 「三十八年も病気にかかっている人」だったことから、主の心を学びたい。
① 6、「・・・見て・・・知ると」と主は、人の見る目とは違い、最も低くされ 最悪な状況下にある者に目を向けられるお方。
恐らく彼は、この場所にいる病人の中でも、一番、絶望的な状況下にあった人だったのでは? 彼の言う、7節b’ 「・・・行きかけると、ほかの人が先に」との状況からでも見える。5節 「三十八年も病気にかかっている人」とあり、詳訳は《 根深い病に掛かっていた 》と。
この病の根深さは、明らかに身体的絶望感も然ることながら、その絶望感から引き起こされる心理的影響、遂にはあきらめに導くものであり、事態は深刻化する。
主はこの最も深刻な病人に近づかれた。若きマザー・テレサが献身して赴く場所として、“ 世界中で最も貧しい町の中でも最も貧しい町を ” と求めた末、インドのカルカッタだったということに、主のこのお心の片鱗を見るのでは?
H・ナウエンから聞く常の言葉に、主のご生涯を指して “ 更に下へ下へ【身を低くする】と向かう道だ ” があるが、大多数の人々が、世的な意味で上に上に【より豊か、心地良く、安易な、高い評価、栄誉、成功】と向かう中、主の目はいつも、最もご自身を必要としている所に注がれている。
この上に上にと上る人々の典型が、10節のユダヤ人。彼らの関心が、最悪の状態にあった人の癒し、救いには全くないどころか、その癒しが「安息日」だったことで怒り、12節 「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか」と尋問する始末。主だと分かった時には、16節 「イエスを迫害し始め」、18節 「ますますイエスを殺そうとするようになった」に見る《 制度主義を誇る惨めな敬虔主義者 》。
確かに、10節 「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」とは、十戒の第四戒「・・・いかなる仕事もしてはならない」という安息日遵守から来ている。しかし戒めの心を理解していない。先ず主を畏れて礼拝の為に聖別し、健全な生活を維持するようにとの宣言。週に一度聖別してこの世のものから身を退け、聖前に出る為の戒めであって、目くじらを立てて、何かそれに違反することでもあれば、訴えて殺意まで起こすなどという姿勢はお門違い。
ウェスレーの群れは 聖日礼拝と学びを終えたならば、その足で弱さにいる人々を見舞い、善行の為にと外へと向かった。
大多数のユダヤ人たちは、律法の心を知ろうとはせず、文字面だけを追った解釈で自らを義とし 高くすることに終始し、決して弱さの中で瀕死状態にある人々への関心は皆無。
② 6節b' 「良くなりたいか。」と、病人の意志に働き掛けられるお方。
良くなりたいか? と聞かれて、良くなりたくないと言う人などいる筈がないにも拘らずの問い掛けだが、どの様な意味? 主は “ あなたは良くなりたいという意志があるのか? ” と尋ねられたのだ。何故なら、彼の心に、7節 「・・・池の中に入れてくれる人がいません・・・」と言う不平不満があり、治しようがないと自分の不遇を自分以外の境遇に置いて嘆いているからだ。意志薄弱の彼を鼓舞された。その上で更に強く意志を目覚めさせるべく、8節 「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命令。9節 「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した」と!!
③ 14節 「後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。『・・・もう罪を犯してはなりません。そうでないと・・・』」と、恵みに与った病人のその後を指導されるお方。
主との初めての出会いから始まる信仰生活の為には、悔い改めによる方向転換の確かさと恵みに留まる生活の如何が重要だからだ。ピリピ2章12節 詳訳 「真剣な注意深さと、敏感な良心と、誘惑に対する警戒をもって、何事であっても神の怒りを招く様なことや、又キリストの名を辱める様なことから用心深く遠ざかって自分自身の救いを達成【開拓し、目標に達成させ、完成】させなさい」である。
※ 魂の救いにのみ関心を抱かれる主の心に近づきたい!!
先週は、4章43節以下《 ある王室役人の息子の癒し 》の出来事から、主が彼の※49節 「・・・下って来てください」に、50節 「行きなさい・・・治ります」とだけ言われたところに《 主の求めておられる信仰の何なるか 》を学んだ。
ⅰ 48節 「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません」との主の抗議に耐えられる信仰。
私たちは、主のしてくださる恵みのしるしを? それとも、恵みのしるしを行われる主を求める者? モーセが率いた民たちの信仰が主からの恵みを喜ぶのみで、いざ苦境に立つと、その境遇に腹を立てては主を呪って呟き、モーセに楯突くのが常だった。この実態が
ⅱ 50、「行きなさい。・・・息子は治ります」に従う信仰。
彼は、50節b 「イエスが語ったことばを信じて、帰って行った」。へブル11章8~12節の《 アブラハムの信仰 》⇒ 「信仰によって・・・従い・・・知らずに出て行きました。・・・彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです」とあるこの信仰である。
ⅲ 53節 「その時刻が、『あなたの息子は治る』とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた」と、信じた者のみが経験し 知る信仰。
50節b'の「信じて」とこの「信じた」とは内容が違う。先の信仰は、とにかく信じる以外の選択肢はないとの死に物狂いの信仰。しかし後者は主をご真実なお方として信じた。主を知って、満ち溢れる感謝に満ちて信頼する信仰。
※ 主をあくまでも真実なお方として信じる信仰に成長をと。
今朝は、5章1節によると、二度目のエルサレム訪問であるが、2節 「ベテスダと呼ばれる池」でのこと、5節 「三十八年も病気にかかっている人」が救われた記事に注目したい。
この訪問での※1節 「ユダヤ人の祭り」は、2章13節の「ユダヤ人の過越の祭り」と、6章4節の二度目の「祭りである過越」との間にあった祭りで、恐らく、9月か10月に行われる
ベテスダの池には大勢の病む人々が群がっていたが、主が目を留められたのが、5節 「三十八年も病気にかかっている人」だったことから、主の心を学びたい。
① 6、「・・・見て・・・知ると」と主は、人の見る目とは違い、最も低くされ 最悪な状況下にある者に目を向けられるお方。
恐らく彼は、この場所にいる病人の中でも、一番、絶望的な状況下にあった人だったのでは? 彼の言う、7節b’ 「・・・行きかけると、ほかの人が先に」との状況からでも見える。5節 「三十八年も病気にかかっている人」とあり、詳訳は《 根深い病に掛かっていた 》と。
この病の根深さは、明らかに身体的絶望感も然ることながら、その絶望感から引き起こされる心理的影響、遂にはあきらめに導くものであり、事態は深刻化する。
主はこの最も深刻な病人に近づかれた。若きマザー・テレサが献身して赴く場所として、“ 世界中で最も貧しい町の中でも最も貧しい町を ” と求めた末、インドのカルカッタだったということに、主のこのお心の片鱗を見るのでは?
H・ナウエンから聞く常の言葉に、主のご生涯を指して “ 更に下へ下へ【身を低くする】と向かう道だ ” があるが、大多数の人々が、世的な意味で上に上に【より豊か、心地良く、安易な、高い評価、栄誉、成功】と向かう中、主の目はいつも、最もご自身を必要としている所に注がれている。
この上に上にと上る人々の典型が、10節のユダヤ人。彼らの関心が、最悪の状態にあった人の癒し、救いには全くないどころか、その癒しが「安息日」だったことで怒り、12節 「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか」と尋問する始末。主だと分かった時には、16節 「イエスを迫害し始め」、18節 「ますますイエスを殺そうとするようになった」に見る《 制度主義を誇る惨めな敬虔主義者 》。
確かに、10節 「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」とは、十戒の第四戒「・・・いかなる仕事もしてはならない」という安息日遵守から来ている。しかし戒めの心を理解していない。先ず主を畏れて礼拝の為に聖別し、健全な生活を維持するようにとの宣言。週に一度聖別してこの世のものから身を退け、聖前に出る為の戒めであって、目くじらを立てて、何かそれに違反することでもあれば、訴えて殺意まで起こすなどという姿勢はお門違い。
ウェスレーの群れは 聖日礼拝と学びを終えたならば、その足で弱さにいる人々を見舞い、善行の為にと外へと向かった。
大多数のユダヤ人たちは、律法の心を知ろうとはせず、文字面だけを追った解釈で自らを義とし 高くすることに終始し、決して弱さの中で瀕死状態にある人々への関心は皆無。
② 6節b' 「良くなりたいか。」と、病人の意志に働き掛けられるお方。
良くなりたいか? と聞かれて、良くなりたくないと言う人などいる筈がないにも拘らずの問い掛けだが、どの様な意味? 主は “ あなたは良くなりたいという意志があるのか? ” と尋ねられたのだ。何故なら、彼の心に、7節 「・・・池の中に入れてくれる人がいません・・・」と言う不平不満があり、治しようがないと自分の不遇を自分以外の境遇に置いて嘆いているからだ。意志薄弱の彼を鼓舞された。その上で更に強く意志を目覚めさせるべく、8節 「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命令。9節 「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した」と!!
③ 14節 「後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。『・・・もう罪を犯してはなりません。そうでないと・・・』」と、恵みに与った病人のその後を指導されるお方。
主との初めての出会いから始まる信仰生活の為には、悔い改めによる方向転換の確かさと恵みに留まる生活の如何が重要だからだ。ピリピ2章12節 詳訳 「真剣な注意深さと、敏感な良心と、誘惑に対する警戒をもって、何事であっても神の怒りを招く様なことや、又キリストの名を辱める様なことから用心深く遠ざかって自分自身の救いを達成【開拓し、目標に達成させ、完成】させなさい」である。
※ 魂の救いにのみ関心を抱かれる主の心に近づきたい!!
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