ヨハネの福音書4章43~54節
先週は、主がサマリアの女と会話をしている間に 出掛け先から帰って来た弟子たちを迎えて指導された記事に学んだ。
彼らが抱いた二つの疑問【何故主は、女性と話しておられるのか? 何故食事を勧めたのに「あなたがたの知らない食べ物がある」と言われたのか?】に応えるべく、35節 「目を上げて畑を見なさい」と言われたおことばからであるが、ちょうど39、40節の光景 《 畑のあぜ道を走って、ご自身のもとにやって来る大勢のサマリア人 》 に感動しつつ話された。
ⅰ 「目を上げて」見なさいと言われた「畑」とは?
サマリア人の女であり、彼女によって導かれて来た失われた人々であり、救いを必要としている世界。「よく見なさい。色づいて刈り入れを待つばかり」だと注意を喚起して。
ⅱ 問題は、《 私たちの隣人、家族、職場の方々、この国の人々、世界中の人々 》 を見て、主のように「色づいて、刈り入れるばかりになってい」ると見ているか? それとも、「まだ四か月あって、それから刈り入れだ」と言う者か?
主のこの「まだ・・・」とは、弟子たちの 《 怠惰、怠慢、無関心、不注意、危機感の無さ・・・これらの根は、自己中心の罪 》 の指摘である。
ⅲ しかしもし、主と共に、34節 「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」と告白し、主の生き様を自らのものとするならば、そこには必ず、36~38節の「蒔く者と刈る者が喜ぶ」宣教の実を見ると主は言われる。
※ 何れの立場であれ、主と重荷を共にする者でありたい、と。
今朝は、主が、サマリア人から「自分たちのところに滞在してほしい」との願いを受けて二日間留まられて後のこと、再びガリラヤに行かれたカナでの、54節 「第二のしるしとして行われた」出来事に注目したい。
ガリラヤのカナと言えば、46節 「イエスが水をぶどう酒にされた場所」として記憶に新しいが、その出来事に次ぐ 《 ある王室の役人の息子の癒し 》 を通してのしるしである。
この役人は、ここカナとは10数キロ離れたカぺナウムに在住し、ヘロデ王【ガリラヤの領主で、ルカ9章7節によると、しるしを行われる主に脅威を抱いて、バプテスマのヨハネを殺害したことへの良心的咎めもあってか、主をB・ヨハネのよみがえりではと恐れた人物】の臣下だったと考えられる。
47節 「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていた【ギリシア語・未完了時制 ⇒ かなりの期間病に苦しんでいた】のである」と懇願して来た。カナの婚礼でのしるし、ユダヤでの数々のしるしを聞いてか? 息子の病を身近に見ながら、徐々にしるしを行われる主への関心が高まっていたに違いない。
彼が主の許に来た時、49節 「主よ」と言っている限り、主を特別視していた様子が窺える。彼は「どうか子どもが死なないうちに、下って来てください」と必死だった。
しかし主は、彼の「来てください」には応ぜず、50節 「行きなさい。あなたの息子は治ります。」とだけ言われた。
ここに 《 主の求めておられる信仰の何なるか 》 を学びたい。
① 48節 「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません」との主の抗議に耐えられる信仰。
主は、この役人だけに言われたのではなく、そこに居合わせている人々に問題提議された。
43、44節を詳訳で見ると、「・・・ガリラヤに行かれた。ただしイエスご自身、『 預言者は自分の故郷では尊ばれない 』 と公言されたのであった。ところが、ガリラヤに入られた時、ガリラヤ人も又彼を歓迎した。彼らも又祭りに参加していたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさった全てのことを皆見ていたからである」とある。
ここで主の言われたことは、“本来あなたがたは頑ななのだ。あなたがたが喜び感動してわたしに付き纏ってはいるが、それは唯、わたしが行っているしるしを見てのことであって、決して 《 わたしとの人格的交わりを求めて 》 のことではない。しるしは唯、主が救い主であるとの証拠を示す為のものでしかなく、わたしではなくしるしをのみ求めるところに救いはない”との牽制だった。
私たちは、主のしてくださる恵みのしるしを? それとも、恵みのしるしを行われる主を求める者? 主から恵みのしるしを求める者は、しるしに関心があるのであって、主がどのようなお方か? には関心がない。しるしを与えてくれればそれで良いのだ。モーセが率いた民たちの信仰がこれだった。主からの恵みを喜ぶのみ。従っていざ苦境に立つと、その境遇に腹を立てては主を呪って呟き、モーセに楯突くのが常だった。この実態が頑なという性質なのだ。
② 50、「行きなさい。・・・息子は治ります」に従う信仰。
このおことばは、主が、しるしのみを求めてご自身を慕う在り方を戒められた後、息子の癒やしを求めて更に、49節 「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください」と言って来た役人に与えた指示である。
主は、彼が主の抗議をどれだけ誠実に真剣に受け止めたかを認められたのだ。案の定、素晴らしいことに彼は何と!! 50節b 「その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った」とある。主はこのような信仰者を真の信仰者として受け入れ、求めておられる。
聖霊は、主がこの記事で説かれた信仰の実例を、へブル11章8~12節の 《 アブラハムの信仰 》 で挙げられた。
実に、「信仰によって・・・それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。・・・彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです」とあるこの信仰である。
③ 53節 「父親は、その時刻が、『 あなたの息子は治る 』 とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた」と、信じた者のみが経験し 知る信仰。
50節b'の「信じて」とこの「信じた」とは内容が違う。先の信仰は、とにかく信じる以外の選択肢はないとの死に物狂いの信仰。しかし後者は主をご真実なお方として信じた。主を知って、満ち溢れる感謝に満ちて信頼する信仰。
※ 主をあくまでも真実なお方として信じる信仰に成長を!!
先週は、主がサマリアの女と会話をしている間に 出掛け先から帰って来た弟子たちを迎えて指導された記事に学んだ。
彼らが抱いた二つの疑問【何故主は、女性と話しておられるのか? 何故食事を勧めたのに「あなたがたの知らない食べ物がある」と言われたのか?】に応えるべく、35節 「目を上げて畑を見なさい」と言われたおことばからであるが、ちょうど39、40節の光景 《 畑のあぜ道を走って、ご自身のもとにやって来る大勢のサマリア人 》 に感動しつつ話された。
ⅰ 「目を上げて」見なさいと言われた「畑」とは?
サマリア人の女であり、彼女によって導かれて来た失われた人々であり、救いを必要としている世界。「よく見なさい。色づいて刈り入れを待つばかり」だと注意を喚起して。
ⅱ 問題は、《 私たちの隣人、家族、職場の方々、この国の人々、世界中の人々 》 を見て、主のように「色づいて、刈り入れるばかりになってい」ると見ているか? それとも、「まだ四か月あって、それから刈り入れだ」と言う者か?
主のこの「まだ・・・」とは、弟子たちの 《 怠惰、怠慢、無関心、不注意、危機感の無さ・・・これらの根は、自己中心の罪 》 の指摘である。
ⅲ しかしもし、主と共に、34節 「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」と告白し、主の生き様を自らのものとするならば、そこには必ず、36~38節の「蒔く者と刈る者が喜ぶ」宣教の実を見ると主は言われる。
※ 何れの立場であれ、主と重荷を共にする者でありたい、と。
今朝は、主が、サマリア人から「自分たちのところに滞在してほしい」との願いを受けて二日間留まられて後のこと、再びガリラヤに行かれたカナでの、54節 「第二のしるしとして行われた」出来事に注目したい。
ガリラヤのカナと言えば、46節 「イエスが水をぶどう酒にされた場所」として記憶に新しいが、その出来事に次ぐ 《 ある王室の役人の息子の癒し 》 を通してのしるしである。
この役人は、ここカナとは10数キロ離れたカぺナウムに在住し、ヘロデ王【ガリラヤの領主で、ルカ9章7節によると、しるしを行われる主に脅威を抱いて、バプテスマのヨハネを殺害したことへの良心的咎めもあってか、主をB・ヨハネのよみがえりではと恐れた人物】の臣下だったと考えられる。
47節 「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていた【ギリシア語・未完了時制 ⇒ かなりの期間病に苦しんでいた】のである」と懇願して来た。カナの婚礼でのしるし、ユダヤでの数々のしるしを聞いてか? 息子の病を身近に見ながら、徐々にしるしを行われる主への関心が高まっていたに違いない。
彼が主の許に来た時、49節 「主よ」と言っている限り、主を特別視していた様子が窺える。彼は「どうか子どもが死なないうちに、下って来てください」と必死だった。
しかし主は、彼の「来てください」には応ぜず、50節 「行きなさい。あなたの息子は治ります。」とだけ言われた。
ここに 《 主の求めておられる信仰の何なるか 》 を学びたい。
① 48節 「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません」との主の抗議に耐えられる信仰。
主は、この役人だけに言われたのではなく、そこに居合わせている人々に問題提議された。
43、44節を詳訳で見ると、「・・・ガリラヤに行かれた。ただしイエスご自身、『 預言者は自分の故郷では尊ばれない 』 と公言されたのであった。ところが、ガリラヤに入られた時、ガリラヤ人も又彼を歓迎した。彼らも又祭りに参加していたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさった全てのことを皆見ていたからである」とある。
ここで主の言われたことは、“本来あなたがたは頑ななのだ。あなたがたが喜び感動してわたしに付き纏ってはいるが、それは唯、わたしが行っているしるしを見てのことであって、決して 《 わたしとの人格的交わりを求めて 》 のことではない。しるしは唯、主が救い主であるとの証拠を示す為のものでしかなく、わたしではなくしるしをのみ求めるところに救いはない”との牽制だった。
私たちは、主のしてくださる恵みのしるしを? それとも、恵みのしるしを行われる主を求める者? 主から恵みのしるしを求める者は、しるしに関心があるのであって、主がどのようなお方か? には関心がない。しるしを与えてくれればそれで良いのだ。モーセが率いた民たちの信仰がこれだった。主からの恵みを喜ぶのみ。従っていざ苦境に立つと、その境遇に腹を立てては主を呪って呟き、モーセに楯突くのが常だった。この実態が頑なという性質なのだ。
② 50、「行きなさい。・・・息子は治ります」に従う信仰。
このおことばは、主が、しるしのみを求めてご自身を慕う在り方を戒められた後、息子の癒やしを求めて更に、49節 「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください」と言って来た役人に与えた指示である。
主は、彼が主の抗議をどれだけ誠実に真剣に受け止めたかを認められたのだ。案の定、素晴らしいことに彼は何と!! 50節b 「その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った」とある。主はこのような信仰者を真の信仰者として受け入れ、求めておられる。
聖霊は、主がこの記事で説かれた信仰の実例を、へブル11章8~12節の 《 アブラハムの信仰 》 で挙げられた。
実に、「信仰によって・・・それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。・・・彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです」とあるこの信仰である。
③ 53節 「父親は、その時刻が、『 あなたの息子は治る 』 とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた」と、信じた者のみが経験し 知る信仰。
50節b'の「信じて」とこの「信じた」とは内容が違う。先の信仰は、とにかく信じる以外の選択肢はないとの死に物狂いの信仰。しかし後者は主をご真実なお方として信じた。主を知って、満ち溢れる感謝に満ちて信頼する信仰。
※ 主をあくまでも真実なお方として信じる信仰に成長を!!
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