聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 15


ヨハネの福音書4章27~42節

先週は、主が出会われたサマリアの女を※24節 《 礼拝者とすべく 》 指導された点に注目した。
彼女は、主から※13、14節 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」と言われて、15節 「ここに・・・来なくてもよいように、その水を私に」と極めて打算的な願いではあったが飛び付いた。そこで主は直ちにこの機会を逃さずに、16節 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と意表を突く質問で彼女の内面を抉( えぐ )り、遂に、彼女の求めるべき 《 礼拝者とすべく 》 24節と導かれた。

ⅰ 先ず、「神は霊であるから」とは?
神が霊的実在者であって、物質的存在ではないと宣言され、霊的実在者であるのだから、この山? エルサレム? でとかの場所の問題ではなく、どの様な心で礼拝するかが問題だと。

ⅱ 「神を礼拝する人は」どの様に?
a. 「御霊によって」であって、生来のままでは礼拝出来ない。
自らを罪人と認め、主の十字架による赦しに与って聖霊を内にお迎えして住んで頂き、後、聖霊に支配して頂く清めの明け渡しによって初めて真の礼拝者となる。
b. 「真理によって、真理に基づいて【従って】」礼拝する。
その一例は、マタイ5章21~26節 「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに・・・思い出したなら・・・」と、兄弟姉妹の関係で、苦々しさを心に抱いたままでは礼拝出来ないということ。光の中を生きるとは、言動が肉に支配されず、悉くあらゆる苦々しさが排除された霊性を言う。

※ 23節b’ 「父は・・・求めておられる」とは、平伏したいと!!


今朝は、主がサマリアの女と会話をしている間に、食物の買い出しの為居合わせなかった弟子たちが町から帰って来た時のこと、彼らを迎えて指導されたおことばに注目したい。
それは、二つの彼らの疑問に応える形での指導である。27節 詳訳 「ちょうどその時、弟子たちが帰って来た。そして主が女の人【既婚の婦人】と話しておられるので不思議に思った〈 驚いた、びっくりした 〉。しかしながら、一人として、『 何を尋ねておられるのですか 』 とか、『 何故、その女の人と話しておられるのですか 』 とか尋ねた者はなかった」こと。それは、弟子の目に映る女性の風貌を見て、何があってその様な女性、しかもサマリア人に話をしているのか理解出来なかった。又、31~33節 「・・・そこで、弟子たちは互いに言った。『 だれかが食べる物を持って来たのだろうか。』 」と、何故主が召し上がらないのかを理解出来なかった。
主はその都度、弟子たちの内的必要を見て勤勉に対応されるお方。一方弟子たちにおいては、いつも目で見える表面的な形をもってでしか判断出来なかったり、何らかの世的な因習・固定概念で縛られ、決して内面的・霊的に物事を掘り下げることが出来ず、主のしておられることの ほとんどを理解する霊的能力がない。にも拘らず、知ろうとする積極性、謙虚さに欠け、聞いて知ろうとすることが稀? でほとんどない。
それはしっかりプライドが彼らの心を占めていたからだ。
主は、その彼らの関心を鼓舞すべく、32節 「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」と、34節で 《 父なる神の御心を行うこと 》 に向けようと腐心された。
その御心を行う生き方の為にと弟子たちに※35節 「目を上げて畑を見なさい」と招かれた主のこの招きは、弟子たちと会話しておられた時に入って来た※39、40節の光景 《 畑のあぜ道を走って、ご自身のもとにやって来る大勢のサマリア人 》 に感動されて言われた言葉である!!

① 「目を上げて」見なさいと言われた「畑」とは?

直接的には先ず、群れをなして主の目の前に飛び込んで来たサマリア人のことであり、彼らに証ししたサマリアの女に代表される失われた魂であり、救いを必要としている世界である。主は彼らを見た時、35節 詳訳 「目を上げて畑をよく見なさい。もう色づいて刈り入れを待つばかりではないか」と言われた。
主はそこに、エルサレム在住の宗教家たちと住民たちの頑なさ、自らを敬虔な宗教家だと自称し、自己満足に陥り、その実を失っている彼らを重ね見ておられるが、魂への危機感がない弟子たち。
そこで主は、ご自身を目掛けて畑のあぜ道を駆けて来るサマリア人をご覧になり、「よく見なさい。色づいて刈り入れを待つばかり」だと注意を喚起しておられる。

② 問題は、果たして 《 私たちの隣人、家族、職場の方々、この国の人々、世界中の人々 》 を見て、「色づいて、刈り入れるばかりになってい」ると見ているだろうか? 主の「 『 まだ四か月あって、それから刈り入れだ 』 と言ってはいませんか」との懸念は、弟子において的中だった。

4節 詳訳 「どうしてもサマリヤを通って行かれる必要があった」として尋ねられた町がこのサマリアだったが、主が女と話をしている様子にビックリする弟子たちには、到底同じ心があったとは考えられない。私たちは?
主が一たび、一人のサマリアの女に内的渇望を洞察されてひと言、7節 「わたしに水を飲ませてください」と下手に出て近づかれたならば、直ちに彼女からの反応。瞬く間に彼女は、声を掛けられた方が普通の人ではないことに気づき、遂には、自堕落な破廉恥な生き方をして来た事実を告白し、主を主とお認めしたのだ。
彼女の※29節 「・・・この方がキリストなのでしょうか」には、自らの汚れた素性故に控え目に言わざるを得なくされている様子が漂っているが、疑いもなく信仰の告白である。
主は確実に、その失われた魂を捉え、証人とされたのだ。主とは似ても似つかない弟子たちのそれは明らかに 《 怠惰、怠慢、無関心、不注意、危機感の無さ 》 の露呈であり、これら忌まわしい根は、自己中心の罪との指摘である。

③ しかしもし主と共に、34節 「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」と告白し、主の生き様を自らのものとするならば、そこには必ず、36~38節の「蒔く者と刈る者が喜ぶ」宣教の実を見ると主は言われる。

※ 何れの立場であれ、主と重荷を共にする者でありたい。

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