ヨハネの福音書4章16~26節
先週は、4節 詳訳 「彼にはどうしてもサマリヤを通って行かれる必要があった」という、通常※9節の故に、幾通りかある他のルートを利用する中、あえて※7節、「一人の女」の救いを求めて、このルートを選ばれた主のみ思いに注目した。
ⅰ 7節 「わたしに水を飲ませてください」と迫る自己死の主。
主は彼女の反応を熟知【主をユダヤ人と認めた上で、 “ 普段から蔑視しておきながら、厚かましいこと!! ” と嫌味が露骨】した上での接近。ご自身の必要を切っ掛けに、非難をものともせずに近付く主に、下手に出る無私の愛を見る。
プライドに囚われていれば水を求めない。しかし、彼女の霊的必要【6節に見る人目を憚る事情/18節には、長きに及ぶ男性との破廉恥な生活振り】に応える絶好のチャンスと見て取った時、ご自身への非難を覚悟し、身を低くされた。
ⅱ この女性をして、11節 「主よ」と言わせた主。
彼女は主に引き込まれて行く。己を求めない主に臨んだ聖霊の圧倒的な権威が彼女を捕らえたのだ。彼女からの、9節 「どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」に直ちに、あなたこそ求めるべきだと奥の核心に触れ、15節 「主よ。私が渇くことのないように・・・その水を」と切実な告白に導かれた。
主の※16節 「行って、あなたの夫を・・・」に、彼女をして正直に※17節 「私には夫がいません。」と言わせた。遂には、25節 「女はイエスに言った。『 私は・・・ 』 」に、26節 「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と交わされた場面は何と劇的で感動的なことか!!
※ 一人の人と誠実に向き合われた主に倣いたい、と。
今朝は主が、一人の失われた女性を※24節 「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」と 《 礼拝者とすべく 》 指導された点に注目を。
それは、罪の赦しに始まる救いの究極が、その人をして礼拝者にすることにあるからである。
サマリアの女は、主から※13、14節 「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。・・・その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」と言われて、15節 「彼女はイエスに言った。『 主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』 」と、そんな重宝な水があるなら是非とも頂きたいと飛び付いた。言うまでもなく、主が霊的な意味で言われた水を、物質的な意味ででしか捉えられなかった彼女の「その水を私に下さい」は、極めて打算的な願いであるが、何と主は、彼女から掘り起こされた願いが仮に幼稚なものであったにせよ、その願う心を拾われて、彼女の意表を突く指示を与えられた。16節 「イエスは彼女に言われた。『 行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』 」と。
主は、彼女の求めが真剣であるならば、どんな努力も惜しまないであろうと考えられての指示を。彼女は試された。もし従わないのであれば、頂けない。しかし自分のものにしたい。頂くには、今の私生活を暴露しなければならないことになる。しかし、暴露するなど滅相もないこと。この指示は彼女の内面を抉( えぐ )るものだったのだ。
主のことばは 《 両刃の剣 ⇒ へブル4章12、13節 》。
やっとの思いでの答えが、17、「私には夫がいません」と、今の同棲人を夫として連れて来るわけにはいかず無難に。
動揺する彼女は【水が欲しいが、そうだからといって惨めな内面の全てを暴露するわけにはいかない。何故なら、目の前の人は、「主」と言わざるを得なくされた普通の人ではないにしてもユダヤ人に】ここで諦めて立ち去るかも知れない。その彼女を透かさず捕らえようと単刀直入に、17b、18節 「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」と暴かれた。
さすが、ここまで言われるお方からは離れられず、19節 「主よ。あなたは預言者だとお見受けします」とだけは言って、宗教上の話題を持ち込むことで、はぐらかしに掛かり、主にそれ以上個人的な闇の部分に触れさせまいとした。
20節は 《 サマリア人とユダヤ人との間を引き裂いていた問題 》 であるが、それを議論させようとの魂胆でである。
主は議論で時間を割かずに、権威を持って彼女の議案を退け、21~24節 「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。・・・」と明言し、彼女の求めるべき 《 礼拝者として生きる 》 場所に、24節 「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と決断を迫られた。
主は、25節 「私は・・・」と言う彼女に、汚れた生活をしつつもメシアを待望していたと予知し 《 礼拝について問うあなたが真に礼拝を望むならば 》 と、積極的に※24節を説かれた。
① 先ず、「神は霊であるから」とは?
神が霊的実在者なのであって、物質的ではないと宣言。
当然、ローマ人への手紙1章20~23節 「朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や・・・這うものに似たかたちと替えてしま」うことは戒められるべきである。従って、霊的実在者であるのだから、この山? エルサレム? でとか、場所の問題ではなく、どの様な心で礼拝するか? が問題。
② 「神を礼拝する人は」どの様に?
a. 「御霊によって」であって、生来のままでは礼拝出来ない。
自らを罪人と認め、主の十字架による赦しに与って聖霊を内にお迎えして住んで頂き、後、聖霊に支配して頂く清めの明け渡しによって、初めて真の礼拝者となる。
b. 「真理によって、真理に基づいて」礼拝する。
それは同時に、真理に従うことによって継続される。
その一例は、マタイ5章21~26節 「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに・・・思い出したなら・・・」と、兄弟姉妹の関係で、苦々しさを心に抱いたままでは礼拝出来ないということ。光の中を生きるとは、言動が肉に支配されず、悉くあらゆる苦々しさが排除された霊性を言う。
※ 「父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられる」とは、何と忝( かたじけ )なく恐れ多いことか!! 平伏したい。
先週は、4節 詳訳 「彼にはどうしてもサマリヤを通って行かれる必要があった」という、通常※9節の故に、幾通りかある他のルートを利用する中、あえて※7節、「一人の女」の救いを求めて、このルートを選ばれた主のみ思いに注目した。
ⅰ 7節 「わたしに水を飲ませてください」と迫る自己死の主。
主は彼女の反応を熟知【主をユダヤ人と認めた上で、 “ 普段から蔑視しておきながら、厚かましいこと!! ” と嫌味が露骨】した上での接近。ご自身の必要を切っ掛けに、非難をものともせずに近付く主に、下手に出る無私の愛を見る。
プライドに囚われていれば水を求めない。しかし、彼女の霊的必要【6節に見る人目を憚る事情/18節には、長きに及ぶ男性との破廉恥な生活振り】に応える絶好のチャンスと見て取った時、ご自身への非難を覚悟し、身を低くされた。
ⅱ この女性をして、11節 「主よ」と言わせた主。
彼女は主に引き込まれて行く。己を求めない主に臨んだ聖霊の圧倒的な権威が彼女を捕らえたのだ。彼女からの、9節 「どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」に直ちに、あなたこそ求めるべきだと奥の核心に触れ、15節 「主よ。私が渇くことのないように・・・その水を」と切実な告白に導かれた。
主の※16節 「行って、あなたの夫を・・・」に、彼女をして正直に※17節 「私には夫がいません。」と言わせた。遂には、25節 「女はイエスに言った。『 私は・・・ 』 」に、26節 「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と交わされた場面は何と劇的で感動的なことか!!
※ 一人の人と誠実に向き合われた主に倣いたい、と。
今朝は主が、一人の失われた女性を※24節 「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」と 《 礼拝者とすべく 》 指導された点に注目を。
それは、罪の赦しに始まる救いの究極が、その人をして礼拝者にすることにあるからである。
サマリアの女は、主から※13、14節 「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。・・・その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」と言われて、15節 「彼女はイエスに言った。『 主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』 」と、そんな重宝な水があるなら是非とも頂きたいと飛び付いた。言うまでもなく、主が霊的な意味で言われた水を、物質的な意味ででしか捉えられなかった彼女の「その水を私に下さい」は、極めて打算的な願いであるが、何と主は、彼女から掘り起こされた願いが仮に幼稚なものであったにせよ、その願う心を拾われて、彼女の意表を突く指示を与えられた。16節 「イエスは彼女に言われた。『 行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』 」と。
主は、彼女の求めが真剣であるならば、どんな努力も惜しまないであろうと考えられての指示を。彼女は試された。もし従わないのであれば、頂けない。しかし自分のものにしたい。頂くには、今の私生活を暴露しなければならないことになる。しかし、暴露するなど滅相もないこと。この指示は彼女の内面を抉( えぐ )るものだったのだ。
主のことばは 《 両刃の剣 ⇒ へブル4章12、13節 》。
やっとの思いでの答えが、17、「私には夫がいません」と、今の同棲人を夫として連れて来るわけにはいかず無難に。
動揺する彼女は【水が欲しいが、そうだからといって惨めな内面の全てを暴露するわけにはいかない。何故なら、目の前の人は、「主」と言わざるを得なくされた普通の人ではないにしてもユダヤ人に】ここで諦めて立ち去るかも知れない。その彼女を透かさず捕らえようと単刀直入に、17b、18節 「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」と暴かれた。
さすが、ここまで言われるお方からは離れられず、19節 「主よ。あなたは預言者だとお見受けします」とだけは言って、宗教上の話題を持ち込むことで、はぐらかしに掛かり、主にそれ以上個人的な闇の部分に触れさせまいとした。
20節は 《 サマリア人とユダヤ人との間を引き裂いていた問題 》 であるが、それを議論させようとの魂胆でである。
主は議論で時間を割かずに、権威を持って彼女の議案を退け、21~24節 「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。・・・」と明言し、彼女の求めるべき 《 礼拝者として生きる 》 場所に、24節 「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と決断を迫られた。
主は、25節 「私は・・・」と言う彼女に、汚れた生活をしつつもメシアを待望していたと予知し 《 礼拝について問うあなたが真に礼拝を望むならば 》 と、積極的に※24節を説かれた。
① 先ず、「神は霊であるから」とは?
神が霊的実在者なのであって、物質的ではないと宣言。
当然、ローマ人への手紙1章20~23節 「朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や・・・這うものに似たかたちと替えてしま」うことは戒められるべきである。従って、霊的実在者であるのだから、この山? エルサレム? でとか、場所の問題ではなく、どの様な心で礼拝するか? が問題。
② 「神を礼拝する人は」どの様に?
a. 「御霊によって」であって、生来のままでは礼拝出来ない。
自らを罪人と認め、主の十字架による赦しに与って聖霊を内にお迎えして住んで頂き、後、聖霊に支配して頂く清めの明け渡しによって、初めて真の礼拝者となる。
b. 「真理によって、真理に基づいて」礼拝する。
それは同時に、真理に従うことによって継続される。
その一例は、マタイ5章21~26節 「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに・・・思い出したなら・・・」と、兄弟姉妹の関係で、苦々しさを心に抱いたままでは礼拝出来ないということ。光の中を生きるとは、言動が肉に支配されず、悉くあらゆる苦々しさが排除された霊性を言う。
※ 「父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられる」とは、何と忝( かたじけ )なく恐れ多いことか!! 平伏したい。
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