聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 13


ヨハネの福音書4章1~26節

先週は、26節 「なんと ⇒ ご覧なさい」と、バプテスマのヨハネの立場を気遣って来た弟子たちに、29節で “ 喜ぶべき時が来たと知って歓迎すべきで、あなたがたこそ証人なのだ ” と言って、彼らの忠言を退けたB・ヨハネの信仰に学んだ。

ⅰ 28、「私はキリストではありません。」と弁えた信仰。
全ては主に帰せられるべきであるとの信仰。
27節 詳訳 「人は天から与えられているもの以外は、何も受けること〈 自分のものと主張する、自分のものとすること 〉は出来ない【天から与えられる賜物を受けることで、満足しなければならない】」との弁えから出た信仰である。
B・ヨハネは自分の弟子の中からも、使徒ヨハネ、アンデレを初めとして主に従うようになった事実を受けて、主は花婿であるから、彼らがそのお方に従うのは当然なのだと。
何故なら、35節 「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった」の如く、むしろ全ての人は、そのお方に従って、永遠のいのちに与るべきであると( 36節 )。

ⅱ 28節 「 『 私は・・・ではありません。むしろ( 唯 )、その方の前に私は遣わされたのです 』 と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます」と、自らは唯、主に先立って道を備えるようにと送られた先駆者にすぎないとの弁え。
自らを、※29節 「花婿が語ることに耳を傾けている友人」とし、「花婿の声を聞いて・・・喜びます。ですから、私もその喜びに満ち溢れています」と。30節では、自らの殉教の死をほのめかして、それを喜んでいる。

※ 徹底的に 《 私ではなく、主を喜ぶ 》 信仰に倣いたい、と。


今朝は、4章4節 詳訳 「彼にはどうしてもサマリヤを通って行かれる必要があった」とされた主に近づきたい。
主がこのサマリア経由を願われたのは、※3節 「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた」時のことだった。
エルサレムへの最初の訪問によって行われた 《 宮清め 》 からのご奉仕は、人々に衝撃を与えるところとなり、その結果、1節 「パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知ると( 気付かれた時 )イエスは、」と主がご自身の行動如何によって、聖父の定められた「わたしの時」が脅かされてはとの警戒心から 慎重を期されて移動された時のこと。
この時、何故サマリア経由だったのか?
通常、ユダヤ人がエルサレムからガリラヤへ下る時には、9節c 「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった」という、お互い同じ民族でありながら敵対関係にあったことから、幾通りもある他のルートを利用する中、主はあえて、サマリアを通られたのだから。
彼らの仲違いには歴史的事情があった。かつて、ソロモン王の子の時代、ユダヤの国が南北に別れ、それぞれの歴史を辿ることになるが、神への従順を捨てた北王国イスラエルの首都サマリアがアッシリアに滅ぼされ 国が乗っ取られた時、他国人が移住し、彼らの宗教生活は偶像礼拝と雑婚によって堕落することになる。後日、南ユダもバビロンによって扱われることになるものの、唯一神を信じる自負を持って、サマリア人を生粋のユダヤ人ではないとして 親しい関係を拒絶。
こうした両者の断絶、肉的憎悪関係に囚われることもなく、むしろ、7節に登場する「一人のサマリアの女」の救いを求めて近づかれた 《 魂を愛する主 》 に注目したい。

① 7節 「わたしに水を飲ませてください」に見る自己死の主。

主は彼女の反応を熟知した上でのこと。あたかも主ご自身の必要を満たす為に言っているようにしか思われない方法で彼女に近づかれた。案の定、主を見るからにユダヤ人と認めた上での彼女の反応は【普段から蔑視しておきながら、何と厚かましいこと!!】と皮肉交じり。その態度は素っ気ないどころか、この時とばかりの嫌味が露骨。
当然そのように言われるであろうご自身への非難をものともせずに近付く主には、徹底的に下手に出る無私の愛が。
6節には「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた」と。お疲れから実際、コップ一杯の水を求められるのは自然のこと。求めれば彼女の口から何が飛び出て来るかを知った上で言われたのだ。
ご自分のプライドに囚われていれば、どんなに肉体的に渇いておられても、水を求めないだろう。しかし、彼女の霊的必要に応えるには絶好のチャンスと見て取った時、ご自身への非難を覚悟し、身を低くする以外にないとのお気持ちから、自分が必要としているとの事実を伝えたのだ。
何事にもお互いは果たして、本当に自分の利益を求めずに行動しているだろうか? 打算はないだろうか?
たった一杯の水を求めるのにも、自分に対する損得勘定でその行動を計るということは無いのだろうか?
目の前に※7節 「水を汲みに来た」この女性が現れた時、主は直ちに、彼女を導くのに格好の機会と捕らえて出られたその咄嗟の行動は、常の生き方がそうであったのと、彼女の必要を知っておられたからだ。6節 「時はおよそ第六の時( ※正午ごろ )であった」とは、通常朝方早くから汲みに来る他の女性たちを避けて来る時間。18節では、ずばり「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない」女性であること。この事実を知っておられるからこそ、ご自身の損得を考えずに直ちに声を掛けられた。

② この女性をして、11節 「主よ」と言わせた主。

長い時間がかかっているとは思われない。彼女は主に引き込まれて行く。己を求めない主に、聖霊の圧倒的な権威が及び彼女を捕らえたのだ。彼女からの、9節 「どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」に直ちに、あなたこそ求めるべき人だと、彼女の心の奥、核心に触れられた。彼女は、15節 「主よ。私が渇くことのないように・・・その水を」と切実な告白に導かれ、主の※16節 「行って」に、彼女をして正直に※17節 「私には夫がいません。」と言わせた。遂には、25節 「女はイエスに言った。『 私は・・・ 』 」に、26節 「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と交わされた場面は何と劇的で感動的なことか!!

※ 彼女をしてサマリアに福音の火が灯ることになるのだ。一人の人と誠実に向き合われた主に倣いたい。

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