ヨハネの福音書3章22~36節
先週は、イースターを記念する礼拝に当たって、15節 「永遠のいのちを持つ」ことについて考えた。
ⅰ 「永遠のいのち」とは?
時間が無限に続くというイメージを抱きがちだが、ここでは時間を超越した “ 神の属性【固有の性質】 ” を意味する。従って、「永遠の」は「神の」と同じで、神のいのち、神に属するいのち、神との生きた関係にあって初めて経験するいのち。3章3節 「神の国を見る」、4節 「神の国に入る」と、《 神の国に生きるいのち、神のいのちに与るいのち 》 なのだ。
将来的にも現在地上に居ながらにして経験するいのち。
ⅱ 「永遠のいのち」はどの様にして与えられたのか?
14節 《 主の十字架の事実によって 》 である。
ローマ人への手紙3章23、24節 ⇒ 罪人への相応しさは 《 肉体の死 》 《 霊的死 》 《 永遠の死、絶望的な死 》 の為、「神の恵み」による主の身代わりの代価によらない限り、絶望的だからだ。
ⅲ 「永遠のいのち」に与るには?
15節 「信じる者がみな」、16節 「信じる者が」で、「信じる」とは、18節b 「神のひとり子の名【罪から救う】を信じ」ることに他ならない。信じる者となるには、罪人は自らの罪を知る必要がある。その為主は、1章9節 「すべての人を照らすそのまことの光」として来られ、罪を明らかにされた。その時、3章20節 「光を憎」むのか? 21節 「光の方に来る」のか? 罪が明るみになるのを避けずに、悔い改め【罪を認め、罪を悲しみ、憎み、捨て】て、方向転換することである。
※ 十字架の主と共に死んでよみがえるべく、聖餐式にと。
今朝は、26節 「彼らはヨハネのところに来て言った。『 先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。』 」と、バプテスマのヨハネの立場を気遣ってやって来た弟子たちへの彼の言葉に注目を。
B・ヨハネの弟子たちは、「なんと ⇒ 詳訳 : ご覧なさい」と、師であるヨハネに注意を喚起して、先生が私たちに紹介されたお方が、先生を差し置いて人々に「バプテスマを授けて」いること( 実際は、4章2節によると「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」とある )は問題ではありませんか? と迫り、又、「皆があの方のほうに行っています ⇒ リビングバイブル訳 : こちらに来ないで、どんどんあの方のほうへ行ってしまいます」、こんなことで良いのですか? 何か打つ手を考えないのですか? と。
弟子たちのこの訴えは、モーセが経験したものでもあった。
民数記11章26~29節 「・・・彼らは宿営の中で預言した。それで、一人の若者が走って来て、モーセに告げた。・・・若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った。『 わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。』 モーセは彼に言った。『 あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。』 」と。
モーセは従者ヨシュアの忠言に、「私の為を思っての妬み」と見て潔く退け、むしろやがて迎えるペンテコステの祝福を予告して喜びに浸るべきだとして、指導している。
さて、B・ヨハネは弟子をどのように指導したのか?
その指導の内容を※27~30節の聖句に見るが、モーセ同様この現象こそ望ましいことだと、潔く明確にしている。
連講の初め、B・ヨハネが登場した時に、主に仕えるB・ヨハネの姿勢こそ 《 主の証人の模範 》 と学んだが、その時の学びに加えて、B・ヨハネの信仰から光を受けたい。
彼が明言した核となる言葉は、29節 「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています」である。
それこそモーセに同様、 “ あなたがたは私の為に妬んで悲しみ、大変な事態となったと心配しているが、とんでもないこと!! むしろ喜ぶべき時が来たと知って歓迎すべきなのだ。そのように心配しているあなたがたこそ、実はこのことの証人なのだ ” として彼らの忠言を退けた。
B・ヨハネの信仰は?
① 28、「私はキリストではありません。」と弁えた信仰。
全ては主に帰せられるべきであるとの信仰。
黙示録4章9~11節 「これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。『 主よ、私たちの神よ・・・ 』 」の幻に生きること。
3章27節 詳訳 「人は天から与えられているもの以外は、何も受けること〈 自分のものと主張する、自分のものとすること 〉は出来ない【天から与えられる賜物を受けることで満足しなければならない】」との弁えである。B・ヨハネの弟子の中からも、使徒ヨハネ、アンデレを初めとして主に従うようになったことを受けて、花婿なる主に従うのは当然なのだと。35節 「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった」とあるように、むしろ従って、永遠のいのちに与るべきと( 36節 )。
② 28節 「 『 私は・・・ではありません。むしろ( 唯 )、その方の前に私は遣わされたのです 』 と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます」と、自らは唯、主に先立って道を備えるようにと送られた先駆者にすぎないとの弁え。
従って、29節 「花婿が語ることに耳を傾けている友人」として、「花婿の声を聞いて大いに喜びます。・・・私もその喜びに満ちあふれています」と。
30節 「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と、自らの殉教の死を予感しながら、間もなく果たすべき使命を終えようとしているとほのめかしている。
B・ヨハネの喜びは、先駆者としてなすべきことをした奉仕そのものからの喜びではなく、奉仕の結果、贖いの日に向けて実を結んで行かれる主ご自身にあった。
※ 徹底的に 《 私ではなく、主の喜びを喜ぶ 》 信仰に倣いたい。
先週は、イースターを記念する礼拝に当たって、15節 「永遠のいのちを持つ」ことについて考えた。
ⅰ 「永遠のいのち」とは?
時間が無限に続くというイメージを抱きがちだが、ここでは時間を超越した “ 神の属性【固有の性質】 ” を意味する。従って、「永遠の」は「神の」と同じで、神のいのち、神に属するいのち、神との生きた関係にあって初めて経験するいのち。3章3節 「神の国を見る」、4節 「神の国に入る」と、《 神の国に生きるいのち、神のいのちに与るいのち 》 なのだ。
将来的にも現在地上に居ながらにして経験するいのち。
ⅱ 「永遠のいのち」はどの様にして与えられたのか?
14節 《 主の十字架の事実によって 》 である。
ローマ人への手紙3章23、24節 ⇒ 罪人への相応しさは 《 肉体の死 》 《 霊的死 》 《 永遠の死、絶望的な死 》 の為、「神の恵み」による主の身代わりの代価によらない限り、絶望的だからだ。
ⅲ 「永遠のいのち」に与るには?
15節 「信じる者がみな」、16節 「信じる者が」で、「信じる」とは、18節b 「神のひとり子の名【罪から救う】を信じ」ることに他ならない。信じる者となるには、罪人は自らの罪を知る必要がある。その為主は、1章9節 「すべての人を照らすそのまことの光」として来られ、罪を明らかにされた。その時、3章20節 「光を憎」むのか? 21節 「光の方に来る」のか? 罪が明るみになるのを避けずに、悔い改め【罪を認め、罪を悲しみ、憎み、捨て】て、方向転換することである。
※ 十字架の主と共に死んでよみがえるべく、聖餐式にと。
今朝は、26節 「彼らはヨハネのところに来て言った。『 先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。』 」と、バプテスマのヨハネの立場を気遣ってやって来た弟子たちへの彼の言葉に注目を。
B・ヨハネの弟子たちは、「なんと ⇒ 詳訳 : ご覧なさい」と、師であるヨハネに注意を喚起して、先生が私たちに紹介されたお方が、先生を差し置いて人々に「バプテスマを授けて」いること( 実際は、4章2節によると「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」とある )は問題ではありませんか? と迫り、又、「皆があの方のほうに行っています ⇒ リビングバイブル訳 : こちらに来ないで、どんどんあの方のほうへ行ってしまいます」、こんなことで良いのですか? 何か打つ手を考えないのですか? と。
弟子たちのこの訴えは、モーセが経験したものでもあった。
民数記11章26~29節 「・・・彼らは宿営の中で預言した。それで、一人の若者が走って来て、モーセに告げた。・・・若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った。『 わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。』 モーセは彼に言った。『 あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。』 」と。
モーセは従者ヨシュアの忠言に、「私の為を思っての妬み」と見て潔く退け、むしろやがて迎えるペンテコステの祝福を予告して喜びに浸るべきだとして、指導している。
さて、B・ヨハネは弟子をどのように指導したのか?
その指導の内容を※27~30節の聖句に見るが、モーセ同様この現象こそ望ましいことだと、潔く明確にしている。
連講の初め、B・ヨハネが登場した時に、主に仕えるB・ヨハネの姿勢こそ 《 主の証人の模範 》 と学んだが、その時の学びに加えて、B・ヨハネの信仰から光を受けたい。
彼が明言した核となる言葉は、29節 「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています」である。
それこそモーセに同様、 “ あなたがたは私の為に妬んで悲しみ、大変な事態となったと心配しているが、とんでもないこと!! むしろ喜ぶべき時が来たと知って歓迎すべきなのだ。そのように心配しているあなたがたこそ、実はこのことの証人なのだ ” として彼らの忠言を退けた。
B・ヨハネの信仰は?
① 28、「私はキリストではありません。」と弁えた信仰。
全ては主に帰せられるべきであるとの信仰。
黙示録4章9~11節 「これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。『 主よ、私たちの神よ・・・ 』 」の幻に生きること。
3章27節 詳訳 「人は天から与えられているもの以外は、何も受けること〈 自分のものと主張する、自分のものとすること 〉は出来ない【天から与えられる賜物を受けることで満足しなければならない】」との弁えである。B・ヨハネの弟子の中からも、使徒ヨハネ、アンデレを初めとして主に従うようになったことを受けて、花婿なる主に従うのは当然なのだと。35節 「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった」とあるように、むしろ従って、永遠のいのちに与るべきと( 36節 )。
② 28節 「 『 私は・・・ではありません。むしろ( 唯 )、その方の前に私は遣わされたのです 』 と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます」と、自らは唯、主に先立って道を備えるようにと送られた先駆者にすぎないとの弁え。
従って、29節 「花婿が語ることに耳を傾けている友人」として、「花婿の声を聞いて大いに喜びます。・・・私もその喜びに満ちあふれています」と。
30節 「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と、自らの殉教の死を予感しながら、間もなく果たすべき使命を終えようとしているとほのめかしている。
B・ヨハネの喜びは、先駆者としてなすべきことをした奉仕そのものからの喜びではなく、奉仕の結果、贖いの日に向けて実を結んで行かれる主ご自身にあった。
※ 徹底的に 《 私ではなく、主の喜びを喜ぶ 》 信仰に倣いたい。
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