イースター礼拝 『ヨハネの福音書』 より 11


ヨハネの福音書3章13~21節

先週は、主との個人面談を求めて来た※1節 「パリサイ人の一人で・・・ユダヤ人の議員」ニコデモを迎える主に注目した。
彼の訪問が※2節、「夜」であったことには、立場上人目を憚( はばか )る理由【迫害の危惧】があってのことと思われるが、主の働きから光を受けて、エルサレムの宗教・司法を司る最高議会体制に疑念を抱き、真理を知りたかったからなのだ。
2章25節b 「人のうちに何があるかを知って」、ニコデモを扱われた主のお扱いから主の心を学んだ。

ⅰ 主の誠実さ。
3章2節 「夜、・・・ 『 ・・・神がともにおられなければ・・・ 』 」と、主の働きに感動しつつやって来た悩める器を迎えた主は、ご自身への称賛をよそに、直ちに彼の呻きを読み取って、3節から救いの必要性を訴えられた。その近付き方は鋭く、10節 「あなたはイスラエルの教師なのに」、11、12節 「あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。・・・信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか」と、彼に議員としてのプライドには刺激となる詰問をもって、彼の求めを確かなものとされた。

ⅱ 主の誠実さはニコデモを勝ち取られた。
ニコデモがその時、主の扱いを不服とせずに主に留まり、内密にではあるが、信仰を公にする機会を待ち望みつつ賢明に従ったこと【7章45~51節、19章39、40節】で分かる。
記者ヨハネは、彼を誠実に扱われた主に栄誉を帰している。

※ ニコデモを扱われた主が真の救霊者として私たちの内面に剣を当てて、救いに導かれるお方であることを感謝した。


今朝は、イースターを記念する礼拝に当たって、15節 「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」のおことばから、Message として三つのことを。

① 「永遠のいのち」とは?

初めに先ず言っておきたい。永遠と言うと、時間が無限に続くというイメージを抱きがちで、地上のいのちの延長線上にあると考えているなら、改めたい。
全く違う性質のもので、時間を超越した “ 神の属性【固有の性質】 ” であるとして考えるべきいのちである。
従って、「永遠の」ということばは、「神の」ということばと同じで、エペソ人への手紙4章18節 「彼らは知性において暗くなり、・・・無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています」と言い換えられている。
それ故「永遠のいのち」とは、神のいのち、神に属するいのち、神との生きた関係にあって初めて経験するいのちなのだ。ヨハネはこの経験を更に明確にして、3章3節 「神の国を見る」、4節 「神の国に入る」と言われた主のおことばを伝えているが、「永遠のいのち」とは 《 神の国に生きるいのち、神のいのちに与るいのち 》 ということなのだ。
従って、「永遠のいのち」は時間を超越している「いのち」なので、将来的に経験するいのち【ルカ17章21節 「神の国はあなたがたのただ中にある」】と共に、現在地上に居ながらにして経験するいのち【ルカ21章31節 「神の国が近いことを知りなさい」】なのだ。

② 「永遠のいのち」はどの様にして与えられたのか?

15節 「それは、・・・人の子にあって永遠のいのちを持つため」に、14節 「・・・人の子も上げられなければなりません」という主の十字架の事実によってである。
それは、ローマ人への手紙3章23、24節「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」からで、到底「罪を犯して」来た私たちには与り得ないのが「永遠のいのち」で、唯、「神の恵み」によらない限り、与り得ないのが「永遠のいのち」だからだ。
実に、罪人に定められていた「神の栄光を受けることができ」ないという状態は、死以外の何物でもない。この死とは 《 肉体の死 》 《 いのちの源である神から離れて生きる今、経験する霊的死 》 そして 《 永遠の死 ⇒ 神に立ち返る機会を最早失い、恐るべき第二の死と黙示録で言われている絶望的な死、しかも尽きることのない悔いの苦しみ 》 である。
「神の恵み」、神の一方的なご好意によってということで、私たちには神に認めて頂けるような善がないからだ。
ローマ人への手紙3章10~20節 「義人はいない。一人もいない。・・・なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です」とあるように。
同じくローマ人への手紙4章25節 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」、この 《 御子の死と復活 》 によってである。

③ 「永遠のいのち」に与るには?

15節 「信じる者がみな」、16節 「神は・・・世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。この「信じる」とは、18節b 「神のひとり子の名【罪から救う】を信じ」ることに他ならない。
信じる者となるには、罪人は自らの罪を知る必要がある。
その為に主は、1章9節 「すべての人を照らすそのまことの光」として来られ、罪の事実を明らかにされたのだ。
その時、3章20節 「光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」という態度を取るのか? 21節 「真理を行う者」への渇きをもって「光の方に来る」のか? 罪が明るみになるのを避けずに、悔い改め【罪を認め、罪を悲しみ、憎み、捨て】て、方向転換することである。
それは、14節 「人の子も上げられなければ」と、間もなく十字架上で私の罪の報いとしての死を受けるべく 《 肉体が裂かれ、裂かれた肉体から流される血 》 をもって引き受けられた身代わりの死を、私の為と信じることなのだ。
この信仰に立つことによって与えられた「永遠のいのち」は、17章3節 「唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ること【交わる生活によって ⇒ Ⅰヨハネ1章7、9節】」日に日に豊かにされて行くと。

※ 信じるとは、赦しの為に罪を告白し、清めの為に罪の性質を告白すること。十字架の主と共に死に、よみがえるべく、聖餐式に臨みたい。

この記事へのコメント