ヨハネの福音書2章23節~3章15節
先週は、主がご奉仕の手始めに行われた 《 宮清め 》 を見て、18節 「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」と非難したユダヤ人を扱われた記事に学んだ。
ⅰ 主は21節で、神殿を「ご自分のからだ」だとし、19節で神殿を壊すよう命じられ、神殿は建て直されると宣言!!
救い主としての※23節 「しるし」は行われたものの、それらをもって裏付けとはされず、復活を提示された。主が行われるしるしは全て、主が救い主だとの証であるが、目の前で行われるしるしをもってその「しるし」とせずに、信仰によらなければ受け止められないことを以て、答えとされた。しかし謙虚に更に知ろうとすれば分かるのだが。
彼らの反応を恐れずに、神殿を 《 やがてあなたがたが処刑する私だとし、建て直すという証拠を求められたならば、復活こそ、そのしるしだ 》 とされた主の毅然とした姿勢。
ⅱ 23~25節 「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかった・・・」とする信仰をもって。
ここには、主の徹底した 《 聖父と御子との絶対的関係の確立 》 がある。罪人であるお互いには独善的になる危険性があるので、絶えず客観性を必要としているが、主が言われる場合は、そうした恐れのない確信。
聖父が良しとされるか? どうか? この一点にのみ関心を寄せ、何事を為すにも肉的なものの全てを介入させない真面目さ故の確信である。
※ 霊的主との自立した信仰の確立に留意した信仰を、と!!
今朝は、主との個人的面談を求めてやって来たニコデモを迎えられた主に注目したい。彼は、3章1節 「パリサイ人の一人・・・ユダヤ人の議員で・・・」と、70人からなるエルサレム最高議会の一議員だった。
その彼が、2節a 「この人が、夜、イエスのもとに来て」と、単独で、しかも人の目を憚( はばか )ってやって来たのだ。2節a’ 「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」とあることから、議員の中にもニコデモ同様、主を好意的に見ている者が居ることになるが、そうとは言え、申し合わせて出て来るのではなく、又大っぴらに出て来る訳にはいかない事情があったと窺える。
彼はあくまでも個人的渇きを抱いて、しかもその渇きは、彼の行く手を阻む人間的・肉的煩いとして、彼が持っている社会的立場を脅かし兼ねない非難と恐れがあるであろう、それにも拘らず、ニコデモはやって来たのだ。それは、2節c 「神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません」と告白する信仰に、彼の決意の程が分かる。大多数の人々は、2章18節 「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」と偏狭で挑戦的反応だったが、彼には 《 神への畏敬の念 》 があってのこと。実際、主のしておられることは これまでの宗教体制とは相容れない動きである為、神を畏れる畏れが確立していない者には到底理解出来ることではない。
エルサレムの宗教・司法を司る最高議会体制に、主による光が投じられた今、このままでは? との疑念からの渇きが!!
2章24節 「ご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった」という主は、2章25節b 「人のうちに何があるかを知っておられた」お方。ニコデモとのやり取りに主のそのお心を見て、Message としたい。
① 主は、ご自身に近づく者を誠実に扱われるお方。
老聖徒ニコデモの訪問は、主の喜びだった筈。何故なら、主の公的生涯初めてのエルサレム奉仕は、17節 「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」という立ち上がりだったが、反感を抱かれた矢先のエルサレム滞在時に、3章2節 「夜、・・・ 『 ・・・神がともにおられなければ・・・ 』 」と求道者を、しかも指導的立場に在って悩める器を迎えたのだから。
ところが主は、ご自身のその喜びを秘めながらも人間的歓迎のおことばをもっては迎えずに、直ちに、彼の※2節の言葉には言い表されていない 《 彼の呻き声 》 を読み取って、3節から救いの必要性を訴えられた。彼の 《 個人的にやって来た事情、指導者として真理を委ねられつつも、その任が果たせていない現実に悩んでいる事情を 》 知って。
主の※10節 「あなたはイスラエルの教師なのに・・・」は、パリサイ人が如何に、普段から律法分野の専門家として自負を抱きながら、その実を知ってはいないか、誰からの教えも乞う必要などないとする傲慢不遜な人々であるか、の指摘であるが、彼にもこの事実を明確に自覚させ、どこまで徹底的に謙虚になれるのか、真の自分を知らせて、求道の真意を彼に分からせようとしておられるのが見える。
更に続く、11、12節 「まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか」にも、彼は何と答えるのか? ニコデモは “ はい、その通りです。私には救いが必要です ” と答えるのか!! 主はニコデモの心に容赦なく鋭いみことばの剣を当て、予め 《 もし謙るならば、5節 「水と御霊によって」を受け入れるべき 》 と言っておられる。
② 主は、ニコデモを主の弟子としての生涯に導かれた。
ニコデモは、主の扱いを不服としてその場を去ってしまう器ではなかったことを見て共に喜びたい。肉は “ 勇気を出して訪ねて来たのに、歓迎ではなく、私を否定するようなことを言って問題の指摘に終始するとは!! ” と憤慨する性質を持っているが、人の心を見透かされる主は、もし救いを求めさえすれば、責任を持って救われるお方。
記者ヨハネは 《 ニコデモが表立ってではないが、信仰を公にする機会を待ち望みながら、賢明に従ったことを※7章45~51節、19章39、40節に登場させ、彼の信仰を明記することで 》 彼を誠実に扱われた主に栄誉を帰している。
※ ニコデモを扱われた主が真の救霊者として、私たちの内面に剣を当てて救いに導かれるお方であることを感謝したい。
先週は、主がご奉仕の手始めに行われた 《 宮清め 》 を見て、18節 「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」と非難したユダヤ人を扱われた記事に学んだ。
ⅰ 主は21節で、神殿を「ご自分のからだ」だとし、19節で神殿を壊すよう命じられ、神殿は建て直されると宣言!!
救い主としての※23節 「しるし」は行われたものの、それらをもって裏付けとはされず、復活を提示された。主が行われるしるしは全て、主が救い主だとの証であるが、目の前で行われるしるしをもってその「しるし」とせずに、信仰によらなければ受け止められないことを以て、答えとされた。しかし謙虚に更に知ろうとすれば分かるのだが。
彼らの反応を恐れずに、神殿を 《 やがてあなたがたが処刑する私だとし、建て直すという証拠を求められたならば、復活こそ、そのしるしだ 》 とされた主の毅然とした姿勢。
ⅱ 23~25節 「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかった・・・」とする信仰をもって。
ここには、主の徹底した 《 聖父と御子との絶対的関係の確立 》 がある。罪人であるお互いには独善的になる危険性があるので、絶えず客観性を必要としているが、主が言われる場合は、そうした恐れのない確信。
聖父が良しとされるか? どうか? この一点にのみ関心を寄せ、何事を為すにも肉的なものの全てを介入させない真面目さ故の確信である。
※ 霊的主との自立した信仰の確立に留意した信仰を、と!!
今朝は、主との個人的面談を求めてやって来たニコデモを迎えられた主に注目したい。彼は、3章1節 「パリサイ人の一人・・・ユダヤ人の議員で・・・」と、70人からなるエルサレム最高議会の一議員だった。
その彼が、2節a 「この人が、夜、イエスのもとに来て」と、単独で、しかも人の目を憚( はばか )ってやって来たのだ。2節a’ 「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」とあることから、議員の中にもニコデモ同様、主を好意的に見ている者が居ることになるが、そうとは言え、申し合わせて出て来るのではなく、又大っぴらに出て来る訳にはいかない事情があったと窺える。
彼はあくまでも個人的渇きを抱いて、しかもその渇きは、彼の行く手を阻む人間的・肉的煩いとして、彼が持っている社会的立場を脅かし兼ねない非難と恐れがあるであろう、それにも拘らず、ニコデモはやって来たのだ。それは、2節c 「神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません」と告白する信仰に、彼の決意の程が分かる。大多数の人々は、2章18節 「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」と偏狭で挑戦的反応だったが、彼には 《 神への畏敬の念 》 があってのこと。実際、主のしておられることは これまでの宗教体制とは相容れない動きである為、神を畏れる畏れが確立していない者には到底理解出来ることではない。
エルサレムの宗教・司法を司る最高議会体制に、主による光が投じられた今、このままでは? との疑念からの渇きが!!
2章24節 「ご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった」という主は、2章25節b 「人のうちに何があるかを知っておられた」お方。ニコデモとのやり取りに主のそのお心を見て、Message としたい。
① 主は、ご自身に近づく者を誠実に扱われるお方。
老聖徒ニコデモの訪問は、主の喜びだった筈。何故なら、主の公的生涯初めてのエルサレム奉仕は、17節 「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」という立ち上がりだったが、反感を抱かれた矢先のエルサレム滞在時に、3章2節 「夜、・・・ 『 ・・・神がともにおられなければ・・・ 』 」と求道者を、しかも指導的立場に在って悩める器を迎えたのだから。
ところが主は、ご自身のその喜びを秘めながらも人間的歓迎のおことばをもっては迎えずに、直ちに、彼の※2節の言葉には言い表されていない 《 彼の呻き声 》 を読み取って、3節から救いの必要性を訴えられた。彼の 《 個人的にやって来た事情、指導者として真理を委ねられつつも、その任が果たせていない現実に悩んでいる事情を 》 知って。
主の※10節 「あなたはイスラエルの教師なのに・・・」は、パリサイ人が如何に、普段から律法分野の専門家として自負を抱きながら、その実を知ってはいないか、誰からの教えも乞う必要などないとする傲慢不遜な人々であるか、の指摘であるが、彼にもこの事実を明確に自覚させ、どこまで徹底的に謙虚になれるのか、真の自分を知らせて、求道の真意を彼に分からせようとしておられるのが見える。
更に続く、11、12節 「まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか」にも、彼は何と答えるのか? ニコデモは “ はい、その通りです。私には救いが必要です ” と答えるのか!! 主はニコデモの心に容赦なく鋭いみことばの剣を当て、予め 《 もし謙るならば、5節 「水と御霊によって」を受け入れるべき 》 と言っておられる。
② 主は、ニコデモを主の弟子としての生涯に導かれた。
ニコデモは、主の扱いを不服としてその場を去ってしまう器ではなかったことを見て共に喜びたい。肉は “ 勇気を出して訪ねて来たのに、歓迎ではなく、私を否定するようなことを言って問題の指摘に終始するとは!! ” と憤慨する性質を持っているが、人の心を見透かされる主は、もし救いを求めさえすれば、責任を持って救われるお方。
記者ヨハネは 《 ニコデモが表立ってではないが、信仰を公にする機会を待ち望みながら、賢明に従ったことを※7章45~51節、19章39、40節に登場させ、彼の信仰を明記することで 》 彼を誠実に扱われた主に栄誉を帰している。
※ ニコデモを扱われた主が真の救霊者として、私たちの内面に剣を当てて救いに導かれるお方であることを感謝したい。
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