聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 9


ヨハネの福音書2章13~25節

先週は、主の「わたしの時」に対する聖父のご指示が明確にされて後、12節※これまでの家族との送別の時を持ってから、13節 「さて」と、エルサレムへの最初の訪問から先ず手掛けられた 《 宮清め 》 に注目した。主による 《 宮清め 》 は、公的ご生涯の初めと最後の受難週に入られた時とで二度だった。
過越の祭りで捧げる動物売場、神殿税通貨の両替所などは、巡礼者の便宜を図る善意と見受けられるだけにその偽善は恐ろしく、神殿が商業化され法外な利益を得る場となった。
柔和なお方である主が、15節 「細縄でむちを作って」立ち上がられたのを見て想起した弟子たちからの※17節は、宮清めの動機であるが、この「あなたの家を思う熱心」とは、主の聖父への激しい情熱を意味し、主は、神殿を「わたしの父の家」と宣言し、もう一度 《 聖父の神たる尊厳、権利を宣言し、聖父を礼拝されるべき権威者である 》 と迫られた。
そこで横行していた悪事の全て※16節 「それを ここから持って行け」と閉め出されたのだ。
今日的に主は、現在、神の宮とされている【Ⅰコリント3章16、17節】私たちに、神の権利、権威を認めているか尋ねておられる。何故? 私たちは神に占領された礼拝者であるべきだからであり、不敬虔があるなら、罪と汚れの全てを十字架によって追放されるお方として証ししておられる!!

※ 私は真の礼拝者であるのかが問われている。主は神の子たちを真の礼拝者とすべく、神の宮から悪しき全てを追放されるお方と覚えたい、と。


今朝は、エルサレム訪問で先ず手掛けられた主の 《 宮清め 》 を非難して、18節 「すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。『 こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。』 」と、戦いを挑んで来た動きに注目したい。
それは、今まで何ら問題視されずに堂々と行って来ていた神殿での売買を、突如!! 姿を現した主によって、16節 「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と強行に追放されることになったからである。そして、神殿を「わたしの父の家」と主張する主に、もしそれが事実だと言うならば、その裏付けとなる「しるし」を見せるようにと迫ったのだ。
主のお答えは、ユダヤ人には度肝を抜かれるものだった。
19節 「イエスは彼らに答えられた。『 この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。』 」だったから。主のこのおことばがどれだけ衝撃的であったかは、三年後、主が十字架週における最高議会での裁判の際、マタイ26章61節 「この人は、『 わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる 』 と言いました。」と訴えられており、又、十字架刑に処せられた時にも、27章39、40節 「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。『 神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』 」と、この時とばかり、皮肉って嘲笑されたことで分かる。
群衆は挑戦的に※ヨハネ2章20節 「・・・あなたはそれを三日でよみがえらせるのか」と反論しているが、真意が理解出来なかった。

こうして初めての公的ご奉仕の場となったエルサレムでは、ガリラヤでの友好的・好意的反応で受け入れられたのとは打って変わり、敵対視する人々との出会いに始まっている。
18節の「どんなしるしを見せてくれるのか」に対して、微動だにせず※19節 「この神殿を壊してみなさい」と、難問を突き付けられた主に、淡々と 《 公生涯で直面することになるであろう抵抗に備えられた信仰 》 を見る。具体的には・・・?

① 主は、21節 「ご自分のからだという神殿」だとしつつ、神殿は建て直される、即ち 《 復活することをもってそのしるしだ 》 とする信仰。

この信仰こそ、この始まりから経験される ありとあらゆる迫害、攻撃という形に表れる心の根底に巣食っている肉的性質( 嫉妬心、殺意、貪欲、悪意、高ぶり )に怖じ気付かずに対応させる不動の力である。
23節 「イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた」とあるが、それらをもって裏付けとはされずに、復活を提示された。目の前で行われたしるしは、救い主の証拠としてなされたものではあるが、それを見たからといって、人々が主に明け渡す信仰者になる訳ではないと知っておられたから。目で見て信じると言うだけであって、未だ見えないものを確信するという質の信仰ではない。
主は、人々の好奇心を煽って惹き付けたり、その場限りの当面の必要を満たしたりすることをもって、救い主としてのご自身を現そうとは思われなかった。主はむしろ、人々がそれを聞けば、内心を見透かされては怒りをぶつけ、食って掛かって来ざるを得なくされるような事態にされる。敢えてではなく、結果的にそうなる。
因みに、6章60節 「これはひどい話だ」、8章48節 「あなたはサマリア人で悪霊につかれている・・・」、同52節 「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった」、同59節 「すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った」と。彼らの受けが良かろうが悪かろうが、その反応を恐れずに、神殿を「わたしの父の家」と証しされ、それに対する証拠を求められたならば 《 復活こそ 》 そのしるしだと。
弟子たちでさえも、2章22節 「・・・思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じ」ることになる。

② 23~25節 「・・・しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかった」とする信仰。

ここには、主の徹底した 《 聖父と御子との絶対的関係の確立 》 がある。罪人であるお互いは独善的になる危険性があるので、絶えず客観性を必要としているが、主が言われる場合には、そうした恐れのない確信。お互いの倣うべき在り方の為に、言い方を変えるならば 《 聖父が良しとされるか? どうか? のこの一点にのみ関心を寄せ、何事を為すにも肉的なものの全てを介入させない真面目さ 》 である。

※ 霊的主との自立した信仰の確立に留意した信仰を!!

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