聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 8


ヨハネの福音書2章12~17節

先週は、11節 「最初のしるしとしてガリラヤのカナで行」われた 《 水をぶどう酒に変えた 》 奇跡の意義と、そこに秘められた※3、4節に見る 《 主と母の信仰 》 に学んだ。
聖父の時を待つ主と、処女降誕を経験し、主を育てつつ、我が子の公的生涯に入る日を慎重に待ち望んでいた母との信仰である。主に退けられたやに見えた母による、5節 「あの方が言われることは、何でも・・・」に、主のおことばに怯まず、むしろ秘かな喜びをすら感じての指示と窺える。
主は、この不測の事態に聖父の定めた「わたしの時」と確信し、7節 「水がめを水でいっぱいに」と指示して奇跡を行われた。
この奇跡の鍵は、9節 「ぶどう酒になっていたその水」が、6節 「ユダヤ人のきよめのしきたり ⇒ きよめの儀式」の為に置いてあった 《 石の水がめの中の水 》 であったことにある。
一言で 《 主のご降誕の究極的目的である救いの何なるかを示すしるしとしての奇跡 》。即ち、水がめの水は仰々しく手足を洗う外的清めの為のものであり、洗ったことを以て神の前に清いとする儀式を意味していたが、このきよめの儀式に終わりを告げる奇跡、《 主を信じる信仰によって与えられる清め 》 がそれに代わったと告げる奇跡だった。
主は、この「良いぶどう酒」そのものによる喜びを与える為ではない、水によるきよめの儀式では与えられなかった喜びを、「ぶどう酒」がもたらす喜びに擬えた主の福音を与えるとの宣言だったのだ。果たして人々は、それを求めるか?

※ 聖父のご指示を待ち望んで行われた初めての奇跡の意義を正しく理解し、主の与える福音の喜びの再確認をと。


今朝は、主が 《 きよめのしきたり用の水を良いぶどう酒に変えた 》 最初のしるしによってご自分の栄光を現されたことを機に、ご自身に委ねられた 《 公生涯に入るべき時を確認されて初めてのエルサレム訪問 》 での出来事に学びたい。
この新たな局面を迎えられた主が、その前に※12、13節でそのご生涯に節目を!! ここでのけじめを明らかにされた姿勢を見逃さずに見ておきたい。カナの婚礼時には、1、2節 「・・・そこにイエスの母がいた。イエスも弟子たちも」と、母の許での生活上、居合わせた関係性があったこと。その奇跡後も、12節で、弟子たちの名を連ねる前に「母と弟たち」とある。
ここに、これまでの家庭生活における主の忠実さを見る。
主の12歳の時の記事【ルカ2章41~52節 「・・・それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。・・・イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背丈も伸びていった」】は、実に主のご奉仕が始まる30歳までの18年間における誠実さの証。49節 「父の家にいるのは当然のこと」とする信仰を抱きつつ、時が来るまで仕える姿勢。
しかし、一旦「わたしの時」に対する聖父のご指示が明確にされた今、13節 「さて」と立ち上がられる直前、カナからご自身の宣教拠点カぺナウムに下り「長い日数ではなかったが・・・滞在され」、家族に礼を尽くして送別の時を守られた。
主のご奉仕を見守る母と家族の姿が、折に触れ出て来るが、ルカ8章19~21節 「・・・わたしの母・・・とは、神のことばを聞いて行う人たちのこと」と、新しい霊的親族関係を示唆された。
その上で、母の最期を使徒ヨハネに託される在り方!!

13節 「さて」と 《 エルサレムへの最初の訪問 》 をもっての公生涯は、こうした丁寧な人間関係における誠実を尽くされた上で開始された事実を念頭に置き、その初めに手掛けられた 《 宮清め 》 に注目したい。
13節 「ユダヤ人の過越の祭りが近づ」いた時の訪問。
この祭りは、出エジプト記12章で指導者モーセを通して実現したエジプト脱出の出来事を記念して、毎年行うよう制定された祭りである ⇒ 21~28節 「・・・血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入て打つことのないようにされる。・・・永遠に守りなさい」。
主の両親も忠実に過越の祭りに上り、主も12歳から毎年守っておられた祭り、ユダヤ教徒は今日も忠実に守っている。
実に、過越の祭りで捧げられる子羊こそ、十字架上でご自身を、世の罪を取り除く神の子羊である主の予表であり、三年後処刑されることに。
主による 《 宮清め 》 は、この初めの※14~16節 「宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て・・・ 『 それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。』 」と、最後の受難週に入られた時の※ルカ19章45、46節 「・・・ 『 わたしの家は祈りの家でなければならない 』 と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを 『 強盗の巣 』 にした。」とで二度だった。
これら 捧げる動物売場、神殿税通貨の両替所などは、巡礼者の便宜を図るとの善意の見せ掛けでしかなく、正に神殿が商業化し、法外な手数料で利益を得る場に成り下がっていた。

柔和なお方である主が、15節 「細縄でむちを作って」、神殿を汚している宗教家たちを糾弾される光景を見た弟子たちは、17節 「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてある詩篇の聖句を思い起されたことから、宮清めの意義はここにあると見て一つのことを!!
この「あなたの家を思う熱心」とは、主の聖父への激しい情熱、主の※1章18節 「神を説き明か」す原動力であるが、その情熱で主は、神殿を商売の家にして礼拝されるべき神に無関心である人々に、神殿を「わたしの父の家」と宣言し、もう一度 《 聖父の神たる尊厳、聖父の神たる権利を宣言し、聖父を礼拝されるべき権威者である 》 と迫られた。その上で、人々を礼拝者とすべく彼らを神に取り戻そうとされたのだ。
神殿を本来のあるべき姿、存在目的に叶わせようと、その為、そこで横行していた悪事の全て※16節 「それを ここから持って行け」と閉め出されたのだ。主が手にされた「むち」は、主の権威ある尊厳の象徴であり、その場所に居合わせた人々、それが仮に、神殿に携わる役人であろうが、皆、従うべきとの権威を示されたのだ。
今日的に主は、神の権利、権威を認めているかと尋ねられ、神の宮である【Ⅰコリント3章16、17節】私たちをこそ、神に占領された礼拝者とすべく、私たちのあらゆる不敬虔を見て戒め、罪と汚れの全てを十字架によって追放されるお方として、証しされたのがこの宮清め!!

※ 私は真の礼拝者? 主は、神の子たちを真の礼拝者とすべく、神の宮から悪しき全てを追放されるお方と覚えたい。

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