聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 7


ヨハネの福音書2章1~12節

先週は、バプテスマのヨハネから「世の罪を取り除く神の子羊」と紹介された主が、彼の叫びを聞いてついて来た二人の弟子に、38、「あなたがたは何を求めているのですか。」と尋ねられた意味を考え、弟子の資質を吟味された点に学んだ。
彼らの返事は、38節c 「ラビ( 訳すと、先生 )、どこにお泊まりですか」と、主に敬意の念を寄せながら 《 主を知りたい 》 との訴えだった。弟子の資質が認められた彼らは、39、「来なさい。そうすれば分かります」と言われ、主の泊まっておられる所を見て 《 主のご人格に触れ、主をメシア 》 と知った。主の求められた 《 弟子としての資質 》 を持つ者とは?

ⅰ 38、「あなたがたは何を求めているのですか」に対する答えを、いつも明確にされて行く者であること。
この質問は、初めてお会いした日に、主が彼らを吟味したものだが、主のこの質問は生涯的であると覚えた。

ⅱ 39節 「来なさい。そうすれば」と主の如く、議論を止めて、46節b 「ピリポは言った。『 来て、見なさい。 』 」とだけ言える者であること。
言葉による宣教以上に、「見なさい」と、主に感動している生活による宣教に力があるとの弁えを。

ⅲ 41節 「まず自分の兄弟シモンを見つけて、『 ・・・メシアに会った 』 」と、身近な人々に影響力を持つ者であること。
B・ヨハネは二人の弟子に主を、アンデレは兄ペテロに、使徒ヨハネは兄ヤコブに主を、ピリポは45節 「ナタナエル」に主をというように、主は伝えられて行っている。

※ 主の求めに適った弟子で有りや無しやを吟味したい、と。


今朝は、主が四人の弟子たちを見出されてから三日目に、2章11節 「最初のしるしとしてガリラヤのカナで行」われた 《 水をぶどう酒に変えた 》 という奇跡に注目したい。
この奇跡の目的は、明確。「しるし」とは、※証拠としての奇跡であり、20章31節で「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」と明記されているように、主が救い主としてこの世に来て下さったとの事実を証しすることを目的としている。従って、「ご自分の栄光を現された」とあり、この席に居合わせた弟子たちは「・・・信じた」と。
この奇跡を短絡的に、主が水をぶどう酒に変えられたのだから、キリスト者においても飲酒が認められている箇所だと考えて、飲酒を是認する方々がいる。果たしてどうなのだろうか? ここカナの婚礼で振る舞われている光景は、むしろ主が来られるまでの旧約時代から引き継がれて来た慣習、即ち、お酒は祝いごとには欠かせないとする慣習に従ってのことにすぎないのだ。
この出来事は、主がこの婚礼での母マリアからの※3節 「ぶどう酒がありません」という不測の事態を、「ご自分の栄光を現され」る機会とすべきとの導きの下で行われた奇跡。私たちが考えているよりも、もっと深遠で、新時代を迎えたという画期的意義が秘められた出来事なのだ。
しかも、4節 「わたしの時は・・・」との慎重を期しつつ歩んで行われた奇跡だとして、注意深く学ぶ必要がある奇跡である。

その慎重さは、主の母マリアとのやり取りに見られる。
母マリアからの「ぶどう酒がありません」との要請に対して、主の答えは※4節 「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」だった。一見、冷やかにも聞こえるこのおことばであるが、この後の「わたしの時はまだ来ていません」で理解すべきおことば。即ち、母への敬意を払いつつも、「わたしの時」を示してくださる聖父のご指示がなければ、何事もなし得ないとする聖父への献身の表明であり、母への礼節。
実は母マリアにしても、処女降誕という不思議を経験して預けられた主を育てるのに、慎重を期しての日々だったに違いないから、理解出来る。主がいつ、公的生涯に臨まれるのかについて、呑気に構えておられる筈のないことだけは明確。
従って、主からのおことばにも怯まずに、むしろ秘かな喜びをすら感じつつ受け止められたのでは? 何故? 5節 「母は給仕の者たちに言った。『 あの方が言われることは、何でもしてください。』 」と、積極的な指示を与えているから。母マリアの姿勢は、主の聖父との関係を尊重し、主の聖父への従順を喜び、信頼し、自分に確信があるからといって自己主張せずに、唯ひたすら、待ち望んで、主から距離を取って身を引いた上での 《 神を畏れる賢い信仰 》 である。
主は主で、母を「女の方」と呼ばれたところに、仮に子と母とに親密な関係、しかも互いの間に霊的一致があったとしても、神と子との間、神と母との間に、それぞれを介入させない信仰である。母マリア自身、受胎告知を直接両親に? 婚約者ヨセフにでもなく、エリサベツ訪問に走った器だった。

主はぶどう酒が無くなった機会を聖父の時と確信され、7節 「水がめを水でいっぱいに」と指示して奇跡をされた。
ここまでの慎重さをもって行われた奇跡、この奇跡の本来の意味しているところを学んで Message としたい。
その鍵は、9節 「ぶどう酒になっていたその水」が、6節 「ユダヤ人のきよめのしきたり ⇒ きよめの儀式」の為に置いてあった石の水がめの中の水であったことにある。
単なる結婚式の、危機的状況 打破の為の奇跡ではない。
一言で 《 主のご降誕の究極的目的である救いの何なるかを示すしるしとしての奇跡 》。即ち、水がめの水は仰々しく手足を洗う外的清めの為のもので、洗ったことを以て神の前に清いとする儀式を意味していたが、この儀式に終わりを告げる奇跡で、《 主を信じる信仰によって与えられる清め 》 がそれに代わったと告げる奇跡なのだ。人々は、水がぶどう酒に変わったこと自体を喜ぶ喜びに留まり、主を信じることによって与えられる、ぶどう酒に勝る真の喜びを求めることには、程遠かった。
主は、人々が喜んだ「良いぶどう酒」そのものによる喜びを与えようとなさったのではない。水から変えられた「良いぶどう酒」は、飲んだ時に生じる喜びを内側から変える福音の喜びに擬えたのだ。果たして人々は、それを求める?

※ マタイ23章25~28節 「外側はきよめるが・・・。まず、杯の内側をきよめよ」との福音を与えるとの奇跡をもって、奥床しく公的ご奉仕に向かわれる主に、いよいよ近づきたい。

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