ヨハネの福音書1章35~51節
先週は、バプテスマのヨハネが主を見て、共に居合わせた二人の弟子に、29節 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と叫んだところから、主の証人として知るべきお方の理解を再確認した。
B・ヨハネの※31、33節 「私自身もこの方を知りませんでした」とは、主とは親戚関係にあったことから鑑み、面識がなかったの意ではない。主を知るべき様には知らなかったの意。
その彼も、33、34節 「しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました」と、神からの直接的な顕現に与り、主を真の意味で知ることになった。この経験は、単なる知識的納得によってではなく、圧倒的な権威に裏付けられての知り方をもってのこと。それ故彼は、29節 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と感動の余り叫んだのだ。
ヨハネは、どのようなお方として主を知ったのか?
ⅰ 屠られる「子羊」としての生涯を生きるべく祭壇に向かって、一大決意を固められたお方として。
全人類の身代わりの死の為、無傷の子羊として、「今、わたしはここに来ております。・・・神よ、あなたのみこころを行うために。へブル10章7節」との決意をされたお方として。
ⅱ 屠られる「子羊」として捧げられた暁には、34節 「聖霊によってバプテスマを授ける」お方として。
単に犯した罪の赦しに留まらず、罪の性質・腐敗性の全てを焼き尽くす聖霊を注ぎ、聖霊を住まわせて新しい人とし、全人類をご自身の為に買い取るお方として知った!!
※ この「見よ」は、世に宣言すべき互いの叫びと覚えたいと。
今朝は、バプテスマのヨハネから「世の罪を取り除く神の子羊」と、再度翌日も又、36節 「見よ、神の子羊」と紹介された主が、彼の叫びを聞いてついて来た「二人の弟子」を初め、続いて三人をご自身の弟子とされた出来事に学びたい。
彼ら五人が、そして彼らを含む十二弟子の選出までには、ほぼ一年半の経過を見ることになるが、主が公的ご奉仕に携わる際の最初からのビジョンが、この弟子訓練にあったことを見逃せない。
B・ヨハネの紹介によって※37節 「・・・イエスについて行った」二人の弟子を、主がどの様に迎えておられるのか!!
ここに公的生涯に臨まれる主の厳格な姿勢を窺い知る。
38、「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。『 あなたがたは何を求めているのですか【詳訳:あなたがたの願いとは何か】 』 」にである。
勿論、主は彼らのその求めが何であるのかを知らないお方ではない。
唯、B・ヨハネの弟子だった彼らが、今までの指導者から離れて、主に従おうとするその決意にいい加減さがあってはならないからであり、彼ら自身の為にその動機を調べさせ、確固たる決意の程を確認させようとの意図である。彼らの返事は、直接の答えとは思えない、38節c 「ラビ( 訳すと、先生 )、どこにお泊まりですか」という質問になっているが、実はこの予期しない主からの質問への彼らのこの質問は、明確な答えである。何故なら彼らは、主を「ラビ」とお呼びし、主に敬意の念を寄せながら 《 主を知りたい 》 との訴えをもって答えたのだから。
その質問を主が受け入れて、39、「来なさい。そうすれば分かります」と言われたことで、主が彼らに弟子としての資質があると認められたのを見る。弟子たちは、39節b 「彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た」のだ。何と見たのか? 彼らの一人アンデレが感動の余り、41節 「まず自分の兄弟シモンを見つけて、『 私たちはメシア( 訳すと、キリスト )に会った 』 と言った」ことから、泊まっておられる場所を訪れるや、直ちに、B・ヨハネから伝え聞いた 《 救い主の証を認めた 》 ことが分かる。実に、ルカ2章12節 「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」をであり、《 極めてシンプルな生活、これだけあれば十分とする生活に見た価値観 》 それだけで主のご人格に触れ、主をメシアだと知った!!
ついて来た二人に「何を求めているのですか」と質問された主は、主の泊まっておられる場所を求めることを以て答えとした彼らに満足された。
主は、彼らの求めに「来なさい。そうすれば分かります」と言うだけで良しとされた。何と、歯切れの良い 《 心の深いところでのやり取り 》 ではないか!! 彼ら弟子とされた人々が聖霊に満たされて主の証人として派遣されるまでには、ペンテコステを通過しなければならないが、この時、主は弟子として持ち合わせるべき資質を見、更に、この「何を求めているのですか」によって動機が吟味され、主への人間的関心・好奇心ではなく、救い主としての主を知りたいとする人々だと認められたのだ。
こうしたやり取りに見た 《 主の弟子に求められる資質について 》 考えて、Message としたい。
① 38、「あなたがたは何を求めているのですか」に対する答えを、いつも明確にされて行く者であること。
この質問は、初めて主にお会いした時に彼らを吟味した質問ではあるが、主からのこの質問は生涯的であると覚えておきたい。何故なら、主に近づけば近づく程、光に近づくのだから内的に深く痛く探られることになり・・・。十字架に臨まれる主に、右大臣・左大臣の席を求めたヤコブと使徒ヨハネに「自分が何を求めているのか分かっていません。マルコ10章38節」と言われる箇所がある。
② 39、「来なさい。そうすれば分かります」と言われた主の如く、議論を止め、46節b 「ピリポは言った。『 来て、見なさい。』 」と言える者であること。
言葉による宣教以上に、「見なさい」と、主に感動している生活による宣教に力があるとの弁えを。
③ 41節 「まず自分の兄弟シモンを見つけて、『 ・・・メシアに会った 』 」と、身近な人々に影響力を持つ者であること。
B・ヨハネは二人の弟子に主を、アンデレは兄ペテロに、使徒ヨハネは兄ヤコブに主を、ピリポは45節 「ナタナエル」に主をというように、主は伝えられて行っている。
※ 主の求めに適った弟子で有りや無しやを吟味したい。
先週は、バプテスマのヨハネが主を見て、共に居合わせた二人の弟子に、29節 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と叫んだところから、主の証人として知るべきお方の理解を再確認した。
B・ヨハネの※31、33節 「私自身もこの方を知りませんでした」とは、主とは親戚関係にあったことから鑑み、面識がなかったの意ではない。主を知るべき様には知らなかったの意。
その彼も、33、34節 「しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました」と、神からの直接的な顕現に与り、主を真の意味で知ることになった。この経験は、単なる知識的納得によってではなく、圧倒的な権威に裏付けられての知り方をもってのこと。それ故彼は、29節 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と感動の余り叫んだのだ。
ヨハネは、どのようなお方として主を知ったのか?
ⅰ 屠られる「子羊」としての生涯を生きるべく祭壇に向かって、一大決意を固められたお方として。
全人類の身代わりの死の為、無傷の子羊として、「今、わたしはここに来ております。・・・神よ、あなたのみこころを行うために。へブル10章7節」との決意をされたお方として。
ⅱ 屠られる「子羊」として捧げられた暁には、34節 「聖霊によってバプテスマを授ける」お方として。
単に犯した罪の赦しに留まらず、罪の性質・腐敗性の全てを焼き尽くす聖霊を注ぎ、聖霊を住まわせて新しい人とし、全人類をご自身の為に買い取るお方として知った!!
※ この「見よ」は、世に宣言すべき互いの叫びと覚えたいと。
今朝は、バプテスマのヨハネから「世の罪を取り除く神の子羊」と、再度翌日も又、36節 「見よ、神の子羊」と紹介された主が、彼の叫びを聞いてついて来た「二人の弟子」を初め、続いて三人をご自身の弟子とされた出来事に学びたい。
彼ら五人が、そして彼らを含む十二弟子の選出までには、ほぼ一年半の経過を見ることになるが、主が公的ご奉仕に携わる際の最初からのビジョンが、この弟子訓練にあったことを見逃せない。
B・ヨハネの紹介によって※37節 「・・・イエスについて行った」二人の弟子を、主がどの様に迎えておられるのか!!
ここに公的生涯に臨まれる主の厳格な姿勢を窺い知る。
38、「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。『 あなたがたは何を求めているのですか【詳訳:あなたがたの願いとは何か】 』 」にである。
勿論、主は彼らのその求めが何であるのかを知らないお方ではない。
唯、B・ヨハネの弟子だった彼らが、今までの指導者から離れて、主に従おうとするその決意にいい加減さがあってはならないからであり、彼ら自身の為にその動機を調べさせ、確固たる決意の程を確認させようとの意図である。彼らの返事は、直接の答えとは思えない、38節c 「ラビ( 訳すと、先生 )、どこにお泊まりですか」という質問になっているが、実はこの予期しない主からの質問への彼らのこの質問は、明確な答えである。何故なら彼らは、主を「ラビ」とお呼びし、主に敬意の念を寄せながら 《 主を知りたい 》 との訴えをもって答えたのだから。
その質問を主が受け入れて、39、「来なさい。そうすれば分かります」と言われたことで、主が彼らに弟子としての資質があると認められたのを見る。弟子たちは、39節b 「彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た」のだ。何と見たのか? 彼らの一人アンデレが感動の余り、41節 「まず自分の兄弟シモンを見つけて、『 私たちはメシア( 訳すと、キリスト )に会った 』 と言った」ことから、泊まっておられる場所を訪れるや、直ちに、B・ヨハネから伝え聞いた 《 救い主の証を認めた 》 ことが分かる。実に、ルカ2章12節 「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」をであり、《 極めてシンプルな生活、これだけあれば十分とする生活に見た価値観 》 それだけで主のご人格に触れ、主をメシアだと知った!!
ついて来た二人に「何を求めているのですか」と質問された主は、主の泊まっておられる場所を求めることを以て答えとした彼らに満足された。
主は、彼らの求めに「来なさい。そうすれば分かります」と言うだけで良しとされた。何と、歯切れの良い 《 心の深いところでのやり取り 》 ではないか!! 彼ら弟子とされた人々が聖霊に満たされて主の証人として派遣されるまでには、ペンテコステを通過しなければならないが、この時、主は弟子として持ち合わせるべき資質を見、更に、この「何を求めているのですか」によって動機が吟味され、主への人間的関心・好奇心ではなく、救い主としての主を知りたいとする人々だと認められたのだ。
こうしたやり取りに見た 《 主の弟子に求められる資質について 》 考えて、Message としたい。
① 38、「あなたがたは何を求めているのですか」に対する答えを、いつも明確にされて行く者であること。
この質問は、初めて主にお会いした時に彼らを吟味した質問ではあるが、主からのこの質問は生涯的であると覚えておきたい。何故なら、主に近づけば近づく程、光に近づくのだから内的に深く痛く探られることになり・・・。十字架に臨まれる主に、右大臣・左大臣の席を求めたヤコブと使徒ヨハネに「自分が何を求めているのか分かっていません。マルコ10章38節」と言われる箇所がある。
② 39、「来なさい。そうすれば分かります」と言われた主の如く、議論を止め、46節b 「ピリポは言った。『 来て、見なさい。』 」と言える者であること。
言葉による宣教以上に、「見なさい」と、主に感動している生活による宣教に力があるとの弁えを。
③ 41節 「まず自分の兄弟シモンを見つけて、『 ・・・メシアに会った 』 」と、身近な人々に影響力を持つ者であること。
B・ヨハネは二人の弟子に主を、アンデレは兄ペテロに、使徒ヨハネは兄ヤコブに主を、ピリポは45節 「ナタナエル」に主をというように、主は伝えられて行っている。
※ 主の求めに適った弟子で有りや無しやを吟味したい。
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