ヨハネの福音書1章6~8、19~28節
先週は、6~8節で登場させているバプテスマのヨハネを今朝からの学びに委ねて、冒頭からの「ことば」なるお方を、9~18節で更に、「まことの光」として紹介している内容に学んだ。
この世が与えてくれる「光」とは別格に考える必要から、人間的標準を超越した「混じり気がなく完全な不変の光」と言い、それを「すべての人を照らす ⇒ ルカ2章34、35節【心を刺し貫き、思い全てを露わにする剣】」だとしている。そのお方が9節a’ 「世に来ようとしていた」は、旧約から預言されて来た 《 救い主の出現 》 が今現実になろうとしている、の啓示。
にも拘らず、10、11節 「・・・知らなかった・・・受け入れなかった」と、その究極が、主を「十字架につけろ」の声に。
ここで、12節 「しかし」と、大多数がこの主を拒絶したとしても、「神の子どもとなる【神の家族の一員になる】特権」に与る人々がいるという喜びを伝えているところに学んだ。「神の子どもとなる」とは、罪を犯したお互いには絶望的だったが、唯、13節 「神によって」可能となったと!!
ⅰ この特権は、唯、14節a 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」主の謙卑による。
実際的に、18節 「・・・神を解き明かされ」、14節b 「栄光を見」、16節 「・・・恵みを受け」、その恵みとは、律法は罪の指摘のみであるが、主はその罪からの豊かな救いを与えるお方の意。
ⅱ この特権は、唯、12節 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」に与えられる。
弁解せずに真実に悔い改め、救い主をお迎えする謙虚さだけが必要。
※ 3章19~21節 《 光を憎むか愛するか 》 の二者択一のみと。
今朝は、前回、今朝からの学びに委ねていた人物、6、7節 「神から遣わされた一人の人・・・この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった」と紹介されている 《 バプテスマのヨハネ 》 に注目したい。
ヨハネの福音書は、彼が何の為に現れたかを明確にしている。
7節 「証しのために来た。光について証しするため」、8節 「光について証しするために」と、紛れもなく唯、「まことの光」である主を証しするためにと。それは取りも直さず、7節 「彼によってすべての人が信じるためであった」と。
使徒ヨハネが明らかにしている 《 バプテスマのヨハネの立ち位置 》 こそ、実に、キリスト者である私たちの立ち位置であり、キリストの証人として弁えるべき分であるが、B・ヨハネは実に、使徒ヨハネの言う通り、この使命感に生きた人物であったと知ることが出来ることは幸いである。
B・ヨハネが公的奉仕に携わった経緯について、ルカは※3章2節 「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」と伝えているが、この「荒野で」という姿勢に、彼が如何に、父ザカリヤによって幼児期から聞かされていた任務【1章8~17節】を厳粛に受け止めていたか、主を畏れつつ待ち望む人物であったかが分かる。いつ? 何を伝える? 先駆者としての弁えは? を、世の喧騒を避けて、単独「荒野」で待ち望んだのだ。
彼を紹介する使徒ヨハネの証言は紛れもない現実となり、彼は主からの賛辞を得て( マタイ11章11節 )姿を消すことになる。
「荒野で」明確な召しに与ってから公の場に出て間もなく、彼の評判は瞬く間に拡がりを見ることになり、救い主を待ち望んでいた宗教家たちを脅かす存在となって行った。
パリサイ人たちが派遣した人々とのやり取りから、如何に彼らが苛立っていたかが分かる。19節 「あなたはどなたですか」、21節 「それでは、何者なのですか」、22節 「あなたはだれですか」、25節 「なぜ、あなたは・・・」と浴びせる尋問は、決して好意的ではなく、目障りだからである。
派遣された人々に※20節 詳訳 「彼は告白し、否認することなく〈 真理を認め、それを隠そうとはしないで 〉、『 私はキリストではない 』 と告白した」を鍵に、主の証人としての毅然とした態度、在り方を学びたい。
① 自己否定における潔さ。
B・ヨハネのこの告白は、救い主を待望していたユダヤ人から “ もしやこの方が救い主なのだろうか? そんな筈はない ” と、非難めいた気持ちでやって来た彼らであると察知した上での答え。この彼の出方に、彼が如何に 《 主をのみ印象付けようと、注意深く生きていたか 》 を垣間見る。
ほんの少しでも、キリストに帰せられるべき栄誉を、自らに帰せられることのないようにとの注意深さである。
その為に 《 救い主と自らの関係性 》 を明確にした。
a. 23節 「私は、預言者イザヤが言った、『 主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声 』 」ですと、ことばなる主を届ける唯の声にすぎないと。
b. 26、27節 「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と、全幅的信頼を持ってお仕えする唯の、否、最も賎しい僕にすぎないと。
② 21節 「 『 それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。』 ヨハネは 『 違います 』 と言った・・・」に見る 《 神の誉れにのみ生きる 》 高潔さ。
確かに彼は、マラキ4章5、6節で予告されていた人物ではある。しかし、彼らにその者だと言ったところで、唯、反抗的な態度を取らせるだけとの賢明な判断の下、その事実を明かす必要を感じなかったのだ。
彼は正しかった。後、言われた主のことばに注意したい。
マタイ11章14節 詳訳 「もしあなたがたが喜んで受け入れる( 承認する )ならば、このヨハネこそ【御国に先立って】来る筈になっていたエリヤである」と言われた断りを。何という知恵、賢明さを見ることか!! 私たちはどう応えるだろうか? はい、その「エリヤです」と言うのだろうか?
主の言われるように、「喜んで受け入れるならば」のことで、敢えて言う必要はなく、主に委ねて淡々と自らに与えられた使命を果たすことにのみ専念すれば良いとの分別。
※ パウロの告白同様、ガラテヤ人への手紙6章14節 詳訳 「このキリストを通して・・・死にました」の告白に生きる者でありたい。
先週は、6~8節で登場させているバプテスマのヨハネを今朝からの学びに委ねて、冒頭からの「ことば」なるお方を、9~18節で更に、「まことの光」として紹介している内容に学んだ。
この世が与えてくれる「光」とは別格に考える必要から、人間的標準を超越した「混じり気がなく完全な不変の光」と言い、それを「すべての人を照らす ⇒ ルカ2章34、35節【心を刺し貫き、思い全てを露わにする剣】」だとしている。そのお方が9節a’ 「世に来ようとしていた」は、旧約から預言されて来た 《 救い主の出現 》 が今現実になろうとしている、の啓示。
にも拘らず、10、11節 「・・・知らなかった・・・受け入れなかった」と、その究極が、主を「十字架につけろ」の声に。
ここで、12節 「しかし」と、大多数がこの主を拒絶したとしても、「神の子どもとなる【神の家族の一員になる】特権」に与る人々がいるという喜びを伝えているところに学んだ。「神の子どもとなる」とは、罪を犯したお互いには絶望的だったが、唯、13節 「神によって」可能となったと!!
ⅰ この特権は、唯、14節a 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」主の謙卑による。
実際的に、18節 「・・・神を解き明かされ」、14節b 「栄光を見」、16節 「・・・恵みを受け」、その恵みとは、律法は罪の指摘のみであるが、主はその罪からの豊かな救いを与えるお方の意。
ⅱ この特権は、唯、12節 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」に与えられる。
弁解せずに真実に悔い改め、救い主をお迎えする謙虚さだけが必要。
※ 3章19~21節 《 光を憎むか愛するか 》 の二者択一のみと。
今朝は、前回、今朝からの学びに委ねていた人物、6、7節 「神から遣わされた一人の人・・・この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった」と紹介されている 《 バプテスマのヨハネ 》 に注目したい。
ヨハネの福音書は、彼が何の為に現れたかを明確にしている。
7節 「証しのために来た。光について証しするため」、8節 「光について証しするために」と、紛れもなく唯、「まことの光」である主を証しするためにと。それは取りも直さず、7節 「彼によってすべての人が信じるためであった」と。
使徒ヨハネが明らかにしている 《 バプテスマのヨハネの立ち位置 》 こそ、実に、キリスト者である私たちの立ち位置であり、キリストの証人として弁えるべき分であるが、B・ヨハネは実に、使徒ヨハネの言う通り、この使命感に生きた人物であったと知ることが出来ることは幸いである。
B・ヨハネが公的奉仕に携わった経緯について、ルカは※3章2節 「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」と伝えているが、この「荒野で」という姿勢に、彼が如何に、父ザカリヤによって幼児期から聞かされていた任務【1章8~17節】を厳粛に受け止めていたか、主を畏れつつ待ち望む人物であったかが分かる。いつ? 何を伝える? 先駆者としての弁えは? を、世の喧騒を避けて、単独「荒野」で待ち望んだのだ。
彼を紹介する使徒ヨハネの証言は紛れもない現実となり、彼は主からの賛辞を得て( マタイ11章11節 )姿を消すことになる。
「荒野で」明確な召しに与ってから公の場に出て間もなく、彼の評判は瞬く間に拡がりを見ることになり、救い主を待ち望んでいた宗教家たちを脅かす存在となって行った。
パリサイ人たちが派遣した人々とのやり取りから、如何に彼らが苛立っていたかが分かる。19節 「あなたはどなたですか」、21節 「それでは、何者なのですか」、22節 「あなたはだれですか」、25節 「なぜ、あなたは・・・」と浴びせる尋問は、決して好意的ではなく、目障りだからである。
派遣された人々に※20節 詳訳 「彼は告白し、否認することなく〈 真理を認め、それを隠そうとはしないで 〉、『 私はキリストではない 』 と告白した」を鍵に、主の証人としての毅然とした態度、在り方を学びたい。
① 自己否定における潔さ。
B・ヨハネのこの告白は、救い主を待望していたユダヤ人から “ もしやこの方が救い主なのだろうか? そんな筈はない ” と、非難めいた気持ちでやって来た彼らであると察知した上での答え。この彼の出方に、彼が如何に 《 主をのみ印象付けようと、注意深く生きていたか 》 を垣間見る。
ほんの少しでも、キリストに帰せられるべき栄誉を、自らに帰せられることのないようにとの注意深さである。
その為に 《 救い主と自らの関係性 》 を明確にした。
a. 23節 「私は、預言者イザヤが言った、『 主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声 』 」ですと、ことばなる主を届ける唯の声にすぎないと。
b. 26、27節 「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と、全幅的信頼を持ってお仕えする唯の、否、最も賎しい僕にすぎないと。
② 21節 「 『 それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。』 ヨハネは 『 違います 』 と言った・・・」に見る 《 神の誉れにのみ生きる 》 高潔さ。
確かに彼は、マラキ4章5、6節で予告されていた人物ではある。しかし、彼らにその者だと言ったところで、唯、反抗的な態度を取らせるだけとの賢明な判断の下、その事実を明かす必要を感じなかったのだ。
彼は正しかった。後、言われた主のことばに注意したい。
マタイ11章14節 詳訳 「もしあなたがたが喜んで受け入れる( 承認する )ならば、このヨハネこそ【御国に先立って】来る筈になっていたエリヤである」と言われた断りを。何という知恵、賢明さを見ることか!! 私たちはどう応えるだろうか? はい、その「エリヤです」と言うのだろうか?
主の言われるように、「喜んで受け入れるならば」のことで、敢えて言う必要はなく、主に委ねて淡々と自らに与えられた使命を果たすことにのみ専念すれば良いとの分別。
※ パウロの告白同様、ガラテヤ人への手紙6章14節 詳訳 「このキリストを通して・・・死にました」の告白に生きる者でありたい。
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