聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 2


ヨハネの福音書1章1~5節

先週から 『 ヨハネの福音書 』 の連講に入り、記者である使徒ヨハネについて、又、この書の執筆目的を確認した。
ヨハネの福音書は、他の三つの共観福音書に比して、補足的にヨハネならではの観点から書かれていて、自身の名を明記せず、唯「主が愛された弟子」を貫いている点に注目した。
ここに生来、気性の激しい彼からは想像出来ない奥床しさを見たが、ひとえに他の弟子たちに同様、聖霊経験に与ってから変えられた証と見て励まされた。今後の連講に先立って執筆目的を20章31節に学んだ。

ⅰ 「あなたがたが信じるため」とは、主が「神の子キリストである」と信じる( ※信じ続ける ⇒ 生涯的な主従関係 )為と明確。
その為、主の教えが神からのもので、神から遣わされたお方である裏付けとして、cf. 『 ヨハネの福音書 梗概 』 を見つつ、主が行われた多くの奇跡のうちの七つを確認した。

ⅱ 「また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」。この「いのち」、17章3節 「永遠のいのちとは・・・知ること」と、主の功績によって神との交わりに与り、その交わりによって体得することになったいのち。罪の報いとしての死を受けずに、永遠に神と共に生きる全く新しいいのち。
このいのちは、主を信じたと同時に与えられ、やがて主の再臨の日、「私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に」変えられるいのちである。

※ 「一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため」とのビジョンのもとに書かれた福音書を共に学びつつ、お互いも救霊の重荷をもって学んで行きたい、と。


今朝から本文に入るが、前回本書を評して 《 世界で最も深遠な書物 》 と言った A・T・ロバートソンの言葉を思い出して頂きたいが、何と!! 1節 「初めにことばがあった」とは!!
共観福音書の冒頭と読み比べると、見えて来るものがある。
マタイ1章1節「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図 ⇒ ヨセフの家系」。
マルコ1章1節「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」。 
ルカの冒頭から出て来るのは 《 ザカリヤとエリサベツによるバプテスマのヨハネ誕生物語 》 であるが、ひとえに、受胎告知を受ける処女マリアを、1章36節 「見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています」と、激励する為、又主の先駆者としての関係性を示すという目的があってのこと。直接的な系図は、3章23節 「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると ⇒ マリアの家系」~38節 「エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る」。※創世記1章26節 「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」、即ち、神の似姿の意。
三書がそれぞれ、主の存在を「アブラハム」から始めるのと違い、又唐突に、福音宣教から始めるのと違い、処女マリアによるあのベツレヘムの家畜小屋での誕生から始めるのとは違い、主を「ことば」なるお方として紹介し、主は、「初めに」と、一番目二番目にという一番目を意味するのではなく、主には 《 存在の始まりはなく、永遠の過去から存在しておられた 》 なのだと。永遠の過去から存在しておられた「ことば」なるお方は・・・

① 1節b 「神とともにあった。・・・神であった」。

この「あった」とは、過去を意味することばでは勿論なく、受肉された事実を伝えたいがための言い回しに過ぎず 《 受肉以前、神とともにあった、神であった。受肉以降も神とともにあり、神である 》 の意である。
主ご自身のおことばで確認を。17章5節 「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を」の祈りで明白。
又、同21、22節 「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。・・・またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と祈られた祈りこそその証言。
更にヨハネは強調して、1章2節 「この方は、初めに神とともにおられた」とも紹介している。
この「ともに」とは、18節 「父のふところにおられるひとり子の神」と表現される親密な関係である。
出エジプト記33章11節では、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」とあるが、モーセとの関係がこの様であれば、より完全な意味での親密な交わりを意味する。又、民数記12章7、8節 「だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主の姿を仰ぎ見ている」とまで。
Ⅰヨハネ1章3節は、私たちも又招かれている交わり!!

② 3節 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」、いのちの創造者であること。

へブル1章2、3節 「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました」、同11章3節 「この世界が神のことばで造られたこと・・・」とも。
実に、ヨハネ1章4節a 「この方にはいのちがあった」からだ。これは唯、主がいのちを持っておられたという意味だけでなく 《 いのちの源 》 という意味。この世に生を与えて頂いた肉体的いのちも、罪を悔い改めて罪からの救いを与えて頂いた霊的ないのちも主ご自身から頂くということ。
更に、4節a’ 「このいのちは人の光であった」と、その後の歩みにおける「光」となり、今日の歩むべき道、生きる目的、地上生涯の道のりのみならず、やがて迎えられる永遠に向けての全てを照らし導かれる。
詩篇119篇105節 「あなたのみことばは、私の足のともしび 私の道の光です」そのもののお方。
しかも、5節 「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」とは、何という希望。

※ 大胆なこの書き出しに、主への新たな信頼を寄せたい。


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