聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 1


ヨハネの福音書20章30、31節

先週をもって、110回に及んだ 『 ルカの福音書 』 の連講を終了し、今朝から 『 使徒ヨハネによる福音書 』 の連講に入る。
他の三つの福音書が共観福音書と言われており、其々が共通した観点から記録されていることに比して、ヨハネの福音書は独自の観点から補足的【共観福音書にない記録がある】に主と主の働きを紹介しているのが特質。書かれた時期が、福音書では最後のものだとされている( A.D.90年頃、他は50~60年 )こととの関係性が否定出来ないとしても、積極的な意味で、ヨハネならではの観点によると考えるべき書である。
ヨハネは十二使徒の中でも、より親密に主の行かれるところに同行し、特別な訓練を受けるべく選ばれた三人「ペテロとヤコブとヨハネ」の中の一人で、ヨハネだけが福音書記者として選ばれていることになる。
ペテロは、A.D.64年ローマの大火がキリスト者の放火によるものと理不尽な扱いを受けて後、殉教したとされ、ヤコブはより早い段階で、使徒として初めての殉教者となる中、ヨハネは独り、生きながらにして殉教の日々を送りつつ、長寿をもって迫害下にある教会に仕えた人物だった。
ヨハネは、第一の手紙1章1、2節で、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます」と言っているように、かつてこの様には知り得なかった知り方で主を知った者だからなのだ。

R・リーは、 “ ヨーロッパでは、この書は 《 キリストの胸の中 》 と呼ばれている ” と紹介し、A・T・ロバートソンは “ 世界で最も深遠な書物 ” だと評価している。
実際、この福音書では、ヨハネは自身の名を明記せず、21章2節 「ゼベダイの子たち( ヤコブとヨハネ )」と言い、他では全て、唯「主が愛された弟子」だとして貫いている。
十字架の日、あの感動的な場面※19章26、27節でのこと、「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に 『 女の方、ご覧なさい。あなたの息子です 』 と言われた。それから、その弟子に 『 ご覧なさい。あなたの母です 』 と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った」と、自ら名乗らずに書いている。
名を明記せずにこの書でヨハネが初めて自身を登場させているのは、1章35節 「二人の弟子」、40節 「二人のうちの一人は・・・アンデレ」と、バプテスマのヨハネの紹介で主と初めて会った場面でのことである。
彼の生来の性質では、想像出来ない奥床しさ!!
彼は、激しい気性の持ち主だったからだ。
マルコ3章17節 「雷の子」と呼ばれ、10章35~40節 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」と自らの将来の優位な立場を取り付けようとし、ルカ9章54、55節 「 『 主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』 しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた」とエリヤ気取りの激しさを見るが、彼の性格を顕著に現している記事である。

しかしこのヨハネも、他の弟子たちに同様、聖霊経験に与ってからというもの、主よりの特別なご訓練に与った者に相応しく、エルサレム教会の柱として( ガラテヤ人への手紙 2章9節 )用いられ、後、彼は迫害によってパトモス島に追放されるが、その前後、エペソ教会での働きに携わったとされている。
今朝は、ヨハネの福音書の連講に先立って 《 本書の執筆の目的について考え 》 次回から本文に入りたい。
20章31節 「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっいのちを得るためである」。ここに、二つのことが伝えられている。

① 「あなたがたが信じるため」。

ヨハネは、主が「神の子キリストである」と信じる( ※信じ続ける ⇒ 生涯的な主従関係 )為との目的を明確に。その為、主の教えが神ご自身からのもので、神から遣わされたお方であることの裏付けとして、主が行われた多くの奇跡のうちの七つを記録している。cf.プリント 『 ヨハネの福音書 梗概 』
2章1~11節 《 カナの婚礼 》 質を変える/4章46~54節 《 役人の子の癒し 》 距離・空間の超越/5章1~9節 《 ベテスダでの癒し 》 38年間をものともしない/6章1~14節 《 五千人の給食 》 必要の充足/6章16~21節 《 水上歩行 》 自然法則の支配/9章1~12節 《 盲人の癒し 》 何故? への解決/11章1~46節 《 ラザロの蘇生 》 死の克服と、生活を拘束する諸問題を悉( ことごと )く掌握される神として知る手掛かりとなる。

② 「また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」。

「イエスの名によって」とは、イエスの名の意は【罪から私たちを救う、救い主】。この実現の為に十字架の死に至るまで日々死に続けてくださった 《 主の功績にあやかって 》 私たちが「いのちを得るため」と目的を明確にしている。
この「いのち」とは?
3章16節 「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」、同36節 「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている」、4章14節 「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」、6章54節 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを」といういのち。
17章3節 「永遠のいのちとは・・・知ること」とあるように、主の功績によって与えられることになった神との交わりに入り、体得するいのち。罪の報いとしての死を受けずに、永遠に神と共に生きるいのち。魂の不滅とか、地上の命の延長を意味するものではなく、全く新しいいのちのこと。
このいのちは主を信じたと同時に与えられ、やがて主の再臨の日、ピリピ3章17~21節 「・・・私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」とある経験を保証するいのちである。

※ 3章16節 「一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため」とのビジョンのもとに書かれた福音書を共に紐解きつつ、お互いも救霊の重荷をもって学んで行きたい。

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